さて、モンベル五條店から車で30分、吉野神宮へ。今日は吉野山の頂上近くの奥千本、金峯神社までバスで向かい、そこから下千本の金峯山寺蔵王堂まで徒歩で下る予定。
先ずは吉野山のふもと、吉野神宮の御祭神、後醍醐天皇へごあいさつ。
風車と風鈴、創意工夫を凝らして参拝客をもてなしてくださっています。
写真ではわからないのですが、蜻蛉が境内のいたるところ、飛び交っていました。暑い平地にはまだ降りていきたくないみたいです、蜻蛉たち。
吉野三橋とは、元弘の戦に際して、大塔宮護良親王が吉野山を要塞化するにあたり造った壮大な山城、大塔宮吉野城の堀切(空堀)に架かる橋のことで、川ではなく谷にかけられた戦略のための橋なのです。
いちばん低地の吉野山の入り口に設けられた大橋。ここは、まさに序の口。
残りの二つの橋、それはこれからのお楽しみ。
金峯山寺蔵王堂仁王門前、萬松堂さん。私たちは下千本駐車場に車を置き、ここ金峯山寺前のバス停から奥千本まで向かいます。
吉野神宮から奥千本まで往復するバスは土日だけ運行されます。吉野神宮から奥千本まで、かかる時間は33分、運賃は550円。ここ金峯山寺前から奥千本までは18分、500円です。上千本からのバス専用道路は細くて険しい山道なので、ものすごく価値のある18分500円なのです。
なお、徒歩で下千本から奥千本まで向かうとなると、健脚でも2時間はかかります。観光目当てなら、無理せずバスを利用したほうがいいです。
そう言う私も、奥千本まで向かうのは実に30年ぶり、わくわくします。
私がいつも遊んでいるのは、吉野山の中千本まで。谷の向こう側の如意輪寺も中千本エリアに含まれます。
上千本から一挙に山らしくなり、傾斜も角度が広まり、なかなかのキツさ!
しかし、吉野山の真髄は上千本から奥千本にある。
私はそう睨んでいます。
杣人の道を20分ほど笹を薙ぎ倒して進み、バスは金峯神社前の奥千本口に到着。
30年前に私が訪れた際には、西行庵までバスは走っていたのですが、そこまでの道が悪くなったようで、金峯神社前でバスは引き返すようになっていました。
バスで乗り合った登山グループの方々、金峯神社をお参りされた後、吉野山の頂上の青根ヶ峰まで目指して行かれました。ちょっと、ついていきたくなりました。
大峯奥駈道
平成16年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ここ霊場「吉野大峯」そして参詣道「大峯奥駈道」は、高野山・熊野三山などと共にユネスコ世界文化遺産に登録されました。日本では12番目、道としての登録は世界でスペインとフランスを結ぶ「巡礼の道」とここだけとなります。吉野から熊野までの約170km、役行者が8世紀初めに開いたとされる修験者の修行の道です。
天川村ホームページ
もう、吉野山はいたるところ、役行者の像が祀られていました。
巡礼の道、なのです。
吉野山自体、まだ入り口なのです。
山はお母さんのおなかの中、足掻いて藻掻いて、もう一度、胎児になって、海もお母さんのおなかの中、紀州熊野のイザナミのみほとから、もう一度、産んでもらうのです、生まれ変わった自分に。
それが修験道。役行者が開いた道。
そこそこの坂道の参道を登ると、金峯神社に辿り着きました。
涼しい! それに、なんて緑が美しいのか。
金峯神社
奥千本に、杉や桜の老樹におおわれて鎮座する古社。祭神は吉野山の地主神、金山毘古命。
中世以降は修験道の修行場で、藤原道長も祈願したと『栄華物語』に記されています。国宝・藤原道長の経筒を収蔵(京都国立博物館に寄託)。境内左の坂道を3分ほど下ると、義経が弁慶らと隠れた義経隠れ塔があります。
吉野町ホームページ
藤原道長は大峰山の山頂まで登ったとされ、心身とも壮健な男だったのだと、その経筒の存在から知らしめられています。
すがすがしいお宮さんで、ほんとうに来て良かった。
私は30年前、東にルートがそれた西行庵に向かったため、そのまま下山道を採ってしまったので、この金峯神社へはお参りできていなかったのです。
だから、ここは、初見なのです。
ああ、だから義経隠れ塔も今日が初めて。こちらより先ず、金峯神社へお参りを。
金峯神社の拝殿の横手は、大峯奥駈道。
熊、出るんやて! 同じ紙わざわざ2枚並べて注意喚起とは!
本州なので巨大ヒグマと違ってツキノワグマでしょうが、でも、怖いって。
『ゴールデンカムイ』でも一番怖かったのはヒグマでしたし。
息子「パパ、熊に遭ったらどうする?」
主人「死ぬ気で走る」
それしかないよな、実際。死んだふりも通用しないので、命がけで逃げるしかない。
金峯神社の拝殿。本殿はあるのですが、全く見えませんでした。
吉野山山頂の青根ヶ峰もすぐそこ、山の頂の神の社なのです。
ああ、規模は小さくとも、さすが金峯山つまり吉野山から大峰山にかけての山々の総社、すばらしい気韻。北向きの拝殿は、背後、金峯山すべてを担っているように見えました。
金峯山は金を生み出す山として、仏教の黄金浄土と見なされていました。
金は腐りません。永遠の象徴。
だから皆、この山を目指した、永遠に触れるために、永遠そのものになるために。
限りある命だからこそ無限を目指す、その儚さ、その尊さ。
息子「パパ、このお宮さん、綺麗だね」
主人「いいよなあ、山って」
さて、義経隠れ塔へ。物見遊山でも吉野山は訪れることは可能ですが、こういった山道を歩くこともあるので、それなりに歩きやすい靴を履いていくのがベスト。
塔というより、御堂です。大正時代に建てられたので、まだ新しい。
空のすみか、義経の尋常ではない性質を言い表しているような。ここは、並の者なら住めない場所ということだから。
これはやはり御堂、義経のための。
きっと野ざらしで過ごしていたに違いない。それでも平気だったはず、義経とその一行は。
隠れ塔からもっと崖を下ると、展望台。一望、すーばらしー!
おお、見知った山々。
額井岳まで見晴らせるとは!
天の恵み。来て良かった。感動した。
さて、来た道を戻る。まあ、山道ですわ。
こんなの序の口でした、この後に訪れた西行庵までの獣道に比べたら。
左、青根ヶ峰、吉野山の頂上。右はざっくり大峯山。この道が、吉野から熊野まで続く。
熊野? ああ、地名にもなってるんやから熊出て当然か。
正直なところ、西行庵は健脚の方しかお勧めしません。私が30年前にバスで向かったときは、停留所の目の前が西行庵でしたが、今は大回りして、崖の獣道を伝うからです。
私もこのときにはまだ、それを知っていなかったから、この後、えらい目に遭いました。
高所恐怖症でもある私、イヤーな予感。
ここでストップ! ここから下、崖やで、崖!
私はこの先からは行けませんでした、登山靴じゃなかったので。
この写真は、無事崖を下りた主人と息子が撮ってきたもの。
ここ、私も30年前には行けたのです、めっちゃ簡単に。
西行さん、行けなくてすみません、あんな道、無茶ですもん。
こんなところに庵を結ぶって寂しいやろな、と30年前、二十歳の私は思っておりました。
30年後の今の私、僧侶や修験者や貴族や武家やら、金峯山を行き交う人々が意外に多いと知れ、庵って文化芸術サロンみたいなものだったのかもしれないな、と。
何よりも、30年、あっと言う間に過ぎたな、と。
とにもかくにも、ここが奥千本の到達点。
奥千本の下山道。緑色をこよなく愛する私、眼福眼福。
歩きやすい道ですが、これを登ってくるのは、躊躇します。登山に専念する旅なら、それも割り切れますが。
高城山展望台。吉野山とはこの高城山を指すとも言われています。
吉野山の真のあるじ、それは大塔宮護良親王だと、言外に伝わってくるものがあります。父の後醍醐天皇ではなく。
吉野びとは、今もなお、この懸命に生きて死んだ悲劇の皇子を、たいへん大切に思っています。
展望台までの道、整備されていますが、なかなか急です。
ここが、大塔宮吉野城の本陣。
まるで勝手知ったる御所の庭を散策するように、大塔宮は吉野熊野の山々を縦横無尽に駆け巡ったのです。
おおー、左手から、金剛山、葛城山、そして二上山、私の産土まで手に取るよう!
河内の楠木正成も、ほら、もうそこ!
そりゃあ、ここが本陣になるわけだ。しかし、ここまで北条やそののちの足利が攻め入ったわけです。
まさに、吉野城。
歌書よりも軍書にかなし吉野山
各務支孝
下山道、折々の古社が退屈させてくれません。
ここまで神仏習合の嵐が吹き荒れたのです。
しかし、写真撮るの忘れましたが、この近く、お不動様、いらっしゃいました。廃仏毀釈の物差しも、よくわからないところがあります。
待ってました、吉野三橋の最南端の最奥にある、丈之橋(じょうのはし)、その跡。興味がないと、通り過ぎてしまうかも。
丈之橋とは、吉野城の橋の略。この橋、鎌倉時代の激戦の際には跳ね橋だったのです。すっかり埋められてしまって。
さすが天台座主時代、比叡山の荒くれ僧兵どもからも一目置かれていた大塔宮、自然の要塞である山のそこらじゅうに罠をしかけるゲリラ戦は得意だったのでしょう。ランボーみたいですね。
ほんとうに山をよく知っている、人を使役するのも巧い、そんな大塔宮は勇気があって、賢くて、足利尊氏から真っ先に葬られたのも頷けます。
吉野水分(みくまり)神社。
さて、下山道として、奥千本はここで終わり。登ってくる場合、ここからが奥千本の始まり。
ここは、私のいちばん好きなお宮さんなのです。最愛の神社なのに、30年もご無沙汰して、恐縮です。
だって、こんなすてきなお宮さん、みんな一目で好きになる。
主人がため息をつきました。「こんな昔そのものの場所、来たことない」と。
飛鳥斑鳩奈良にはそんなところたくさんあるよ、とも思いましたが、主人の気持ちもよくわかりました。
ここほど手つかずの風格を醸す場所はない、ということ。
息子も「タイムスリップしたみたい」と。
私たちで貸し切りのお宮さん。拝殿が寝殿造で、まるで平安貴族の屋敷のよう。
神域なのにどこかあたたかく思えるのは、公家のお姫様の山雅のお住まいに招かれた心地になるから。
拝殿の庇、綺麗なお姫様が、かわいい稚児たちと貝合わせや双六をして遊んでいるような。
吉野水分神社
水の分配を司る天水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神に玉依姫命(たまよりひめのみこと)(神像は国宝)以下6柱の神を祀る世界遺産の神社。
子守宮(こもりのみや)ともいい、子授け・安産・子どもの守護神として篤く信仰されている。
豊臣秀吉が子授け祈願をし、その子秀頼を授かったことから、現在の社殿はその申し子である秀頼が慶長9年(1604年)に再建したもので、桃山様式建築の三殿一棟の本殿・幣殿・拝殿・楼門・回廊は国の重要文化財に指定された美しい建築。吉野観光協会ホームページ
本殿向かって左奥のお社に、国宝の玉依姫の神像が納められています。
こんな綺麗なお姫様、見たことない。
初めてこちらの神像を、国宝を紹介する本で知ったときに思ったこと。
俳優の田中裕子さんに似ているな、とも。
『おしん』の再放送を観て、呆然となりました、田中裕子さん、あまりにも綺麗で、透きとおるようで。
こちらの神像、展覧会などに出されたこともなく、ずっとこのお宮さんにお籠りされています。
この社はそもそも、子守の宮と呼ばれていました。
この、誰よりも美しいお姫様は、ずっとこちらのお宮さんで、私たちの童心を預かり、見守ってくださっているのです。
どこにも行かず、ここで、子どものころの私たちと、永遠に遊んでくださっているのです。
ありがたさが胸にこみあげてきました。
主人が「帰りたくなくなった」と。
主人がここまで心を奪われた場所、なかったと思います。
この美しいお宮さん、表向き、豊臣秀頼の寄進ですが、その母の淀殿の意向が中心だったような気がします。
朗らかで、柔らかな、淀殿の素顔が見え隠れするのです、影に日なたに。
主人が「このお宮さんの近くに宿、ないかな。あったら、次はそこに泊まりたい」と。
「なつかしいねん、初めて来たのに」
息子「パパ、このお宮さんに住む気かな」
主人「住んじゃってもいいです」
お社の外の拝殿もしっかりと木材が組まれていて、桃山時代の職人たちの腕前、いかに見事か。
誰もが恋する女神のお住まい、両腕をひろげて、子どもたちを迎えてくれているような。
なつかしくてあたりまえ。こちらの女神は、みんなのお母さん、なのですから。
北向きのお宮さん、金峯山寺と向かい合っているからでしょう。
お母さん、30年ぶりに会えて、嬉しかった。ずっと、待ってくれていたようで。
また会えるかな。いや、果たせるかどうかあやふやな約束はせず、胸に刻もう、あの面影を。
花矢倉展望台の三郎鐘、世尊寺跡、人丸塚。
花矢倉に登ろうと思ったのですが、この日はちょうど地蔵盆の日で、吉水院宗信の墓の近くの祠でも、ここだけではなく五條から吉野の小さな祠いたるところ、お祭りが行われ、邪魔をしないように、花矢倉、ちょっと足早に通り過ぎてしまいました。
地蔵盆は子どものお祭りなのですが、子どもがほぼ見当たらず、ご年配の方々ばかりが目立ち、胸に来るものがありました。
子どもたち、みんな、どこへ行ってしまったのか。
寂しいけれど、寂しさに触れるのは、嫌いじゃない、
佐藤忠信花矢倉
この下の横川覚範の首塚で見てきたように、源義経の身代りとなって主従を落ちのびさせるために、佐藤忠信が一人ふみとどまり、追いすがる敵を切り防いだ古戦場で、ここが佐藤四郎兵衛忠信の花矢倉です。
忠信は小高いこの丘に上って、攻め寄せる僧兵、なかでも妙覚院の豪僧、横川の覚範に向って、矢を雨のようにあびせかけ、深い雪で血刀をふるって戦った、その昔のいくさの様子が、そぞろ思い起こされます。
忠信は、奥州信夫(福島市)の庄司、佐藤元治の子で、源義経が金売り吉次に伴われて、平泉(岩手県)の藤原秀衡のもとに身を寄せたときに兄継信とともに、義経の家来になった侍で、弁慶とならんで義経の片腕として、おおいに活躍したのでした。
忠信はここで攻め来る敵を追い散らした後、命ながらえて京都へ潜入し、身を隠していたところを襲われ、自殺して果てました。
年わずか二十八歳だったと、「義経記」は伝えています。吉野町観光課
息を呑む絶景。よくある吉野山の金峯山寺周辺の風景、この上千本から撮影していたのですね。
この近く、ゲストハウスの「コテージ葛花」が。主人、じーっと見つめていました。
ここに泊まる気? 確かに眺めは最高です。
横川の覚範の首塚。なんて見事な大木、引き寄せられました。
この木、クスノキ、芳樟かな。浅い緑、濃い緑、目から疲れが霧散する。
雨師観音堂。廃仏毀釈で、竜王社に。だから、御堂に鳥居。
この御堂、後醍醐天皇がここで雨宿りの際、「ここはなほ丹生の社にほど近し祈らば晴れよ五月雨の空」と詠まれると、豪雨が上がったとの言い伝えから、雨師観音堂と呼ばれるようになったと。
丹生の神とは、丹生川上神社の龍の女神、水を司る神のこと。
雨師、雨乞い師、そんな太古のシャーマンに、後醍醐天皇はなりたかったわけではないでしょうが。
ここで初めて外国の方とすれ違いました。20代らしき若い男性で、背が高く、引き締まった体躯、金髪碧眼、動きやすい平服で、黙々と道を南へ登って行かれました。
どこまで登るの? もう2時、案内看板を鵜吞みにして、ここから金峯神社まで30分でなんか、着かないよ。
そう教えてあげたかった、たった一人で吉野山の上千本の山道を歩いて登る、異国のひとへ。
吉野山を巡礼の道に選んだかのように真摯な若いひと、明るいうちに無事に下山して、と。
私も二十歳のとき、あんなふうに思い詰めて、うつむいて、この山を登っていたのでしょうか。
向こうの塔尾山の中腹、後醍醐天皇の御陵でもある、如意輪寺が。今日のお参りは無理、もう峠を越える体力がない。ごめんなさい、主上(おかみ)。
なぜ後醍醐天皇がこちらの主軸の尾根の吉野山にではなく、あちらの塔尾山に御陵を設けられたのか、なんとなくわかったような気がします。
吉野山はどこもかしこも大塔宮の残照が光り輝いている。自分が見捨てた息子が死してなお放ち続ける、目も眩むほどの情熱が。
左手は大塔宮を顕彰する仰徳碑、右手は大塔宮の吉野城の火の見櫓の跡。ここから河内の楠木正成に向けて狼煙を上げ、連絡を交わしていたのです。
どうして、こんなひたむきで優秀なふたりを見捨てたのか、後醍醐天皇は。
ひたむきで、優秀だったから、か。
むくわれない、ちがう、私のようにそれを見捨て置けなかった者たちが、敗者の歴史、真の歴史を守り、受け継ぐことをやめなかった。
だから、これほどの史跡が遺された、この山に。
後醍醐天皇の顕彰碑。ここも30年前、訪れました。11月下旬で、紅葉が美しかった。
30年前、偶然、奥千本行きのバスに乗り合ったご年配のご夫婦と一緒に、西行庵から蔵王堂まで、今と同じように奥千本から下千本まで歩いて下ったのです。
穏やかなご夫婦で、一緒に秋の吉野山を観光しながら散策して、とても楽しかったのです。
後で、同行した母から聞いたのですが、ご夫婦の一粒種の娘さん、嫁ぎ先でとてもつらい思いをされていて、折々に「帰りたい、帰りたい」とご夫婦に泣いて乞われていたと。
時代が時代なので、ご夫婦も娘さんに「辛抱して、辛抱すればそのうちきっと良くなるから」と宥めることしかできなかったと。
すると、ある日、娘さんは突然亡くなられてしまったのです。娘さんにお子さんはいませんでした。
「どうして帰っておいでと言ってあげられなかったのか、悔やんでも悔やんでも悔やみきれない」、そうご夫婦は告げられたと。
「娘さんの人生、娘さんの自由にさせてあげてください」、そう母はご夫婦から因果を含められたのだと。
最後に手を振って、ケーブルの駅で別れたご夫婦の満面の笑顔、今でもはっきりと目に浮かんできます。
ご夫婦にも、吉野山は巡礼の道だったのです。
30年前、ご夫婦は既に70歳を過ぎておられたはず。30年前に既に、これが最後の吉野山かもしれないと、おっしゃっていた。おそらく、もう会えない、だからこそ、忘れられない、忘れたくない、そんな一期一会の旅の供連れだったのです。
おじさん、おばさん、娘さんに会われましたか?
おじさん、おばさん、どうぞ安心してください。
30年間、私は自由に生きてこられました。
ここら一帯の坂を猿引坂といいますが、その謂れはわからないのだそう。猿引って、猿回しのことです。芸能集団がここらに屯していたということでしょうか。
わー、すんごい急な石段。小山神社としての御祭神は須佐之男命。ここ、そもそもは大梵天王社とのこと。
この辻、仙界から人界へ戻ったよう。ここからも、奥千本行きのバスは乗れるのです。
実は息子が立っているあたりが、吉野三橋の真ん中、天王橋(てんおうばし)。
大梵天王社のたもとの橋、だから天王橋。
なるほど、正面の小高い大梵天王社に、陣を張ったんだ。
蟷螂が、この石碑の案内の存在を息子に知らせてくれました。
竹林院。30年前、ここの庭園で野点のバイトをしていました。なつかしい!
櫻本坊。門を覗いていると、布袋様のように恰幅の良いご住職が笑顔で現れ、「どうされました? 道に迷われましたか?」と。「大丈夫です」と私も笑って答えました。
心のなか、道にはずっと、迷っている。それが人生だと。
上千本の坂はなかなかのもの。ここを数万の大群が襲い来たるとは。戦ってのは、パワーをどれだけ消耗するものなのか。
でも、いまさらながら、気持ちいい、歩いて吉野山を下るのは。
喜蔵院が見えてきた。私たちが吉野を訪れると、だいたいこんな龍がとぐろを巻く空模様になる。
ここ喜蔵院も、これまで通って来た竹林院も櫻本坊も、宿坊なので泊まれます。
ホテル芳雲館の番犬、柴犬のワカちゃん。見とれるほど、かわいい。声をかけても薄目を開けるだけ、またすぐ眠ってしまう、落ち着き払った子です。
吉野山に柴犬なんて、最高のカップリング。暑い夏の昼下がり、眠るのが一番。
勝手山の石碑、とうとう、勝手神社の裏手まで降りてこられました。
上千本はここまで。ここから中千本です。
袖振山。吉野天人、ここに天女が舞い降りた。
2001年に賽銭泥棒の付け火で焼亡して以来、拝殿はなし。早く復興しないかな。
ここからも、奥千本行きのバスに乗れます。
左、如意輪寺へ至る峠を指しています。郵便ポスト、桜模様。
ああ、やったね、いつもの吉野山散策の道に戻った!
遅めの昼食。中千本ではいつもここ、お食事処の西澤屋さん。窓際の奥の間に勧められました。
十一面千手観音、観音菩薩は水の神でもあるので、水が供えられています。
主人はカツ丼、息子は温かい山菜蕎麦、私は葛蕎麦の天ざる。セットにすると柿の葉寿司と葛わらび餅がついてきます。中千本は吉野山の観光地なのですが、ここ西澤屋さんはお値打ちで、味はもちろん文句なし!
何より、接客が素晴らしいのです。お勧めのお店です。
勝手神社、静御前よろしく、別れの歌を私もしばし口ずさみ。
しづやしづしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな
静御前『吾妻鏡』
時間を元に戻せはしない。
楽しかった、楽しかった、もはや走馬灯のような想い出。
毎度おなじみ、吉水神社。今日は鳥居からのお参り。
百合もしおれる、夏の終わり。ぐるっと大団円、舞い戻ってきました、金峯山寺蔵王堂まで。
百合は死者を悼む花。義経、大塔宮、若さの盛り、夏の盛りで逝ってしまった、私の悼み、私の憧れ。
思い詰めてなお驕る若さの二十歳の私、子守の宮で永遠に遊ぶ子どものころの私、打ち捨てた記憶、凍り付いた想い出、すべて、すべて、もはや過ぎた今日の吉野山、それ、私自身への弔いめいた、巡礼めいた、あの日、あの時、数限りなき面影を追った、人生の夏を越えて夏を得た、それこそ、吉野山、弔いの道、巡礼の道。
その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
与謝野晶子『みだれ髪』