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洪水神話 Mein Trauma

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小松左京氏の小説『日本沈没』、これは、『漂流教室』『14歳』など楳図かずお先生の傑作群と比肩する、私のトラウマの原点。

Mein Kampf 我が闘争ならぬ、Mein Trauma 我が心的外傷。
私は物心ついたころには既に、やけっぱちな物思いに耽る節があり、そのとき脳裏に渦巻くは「ぜんぶ洪水に呑まれたらええねん」との「人類初期化」への悪辣な願望でした。

神と子どもは双子のように似ています。
腹を立てると「知らん!」の一言で、遊びを御破算にしてしまいます。
そう、子どもが世界中に存在すると同様、世界ほぼ全域に洪水神話が存在するのです。

しかし、人類滅亡の大洪水、それが人類の末席を汚す我が身にも降りかかると気付くと、神とちがって生身の子ども、ただでさえ有り余る想像力がゆえ、最大級の恐怖に脳貧血を起こします。
で、ものの見事なトラウマとなる。

小松左京氏を同業の田辺聖子さんは親しみを込めて「こまっちゃん」と呼んでいました。
『さよならジュピター』で木星を吹っ飛ばして破壊したような過激なこまっちゃん、何をもってして日本列島を沈めたのか。

ネタバレになりますが(ていうか、題名で既にネタバレ)、小説のラストの日本沈没の後、主人公の小野寺を介抱する八丈島出身のマコの独白こそ、こまっちゃんがなぜ洪水神話を書こうと思ったかの核心なのでは。

八丈島は、神話と民話の宝庫です。
八丈島の始祖、丹那婆(たなば)の伝説をマコは小野寺に語るのです。
身ごもっていたタナは、大津波で自分一人生き残ってしまい、やむなく男の子を産み落とすと、その息子が大きくなったら母子で交わり、女の子を産み、その娘が育つと息子と交わらせ、そうしてタナの遺伝子だけで次々と子孫を増やしていった、と。

壮絶な伝説です。
兄妹交合の民話はたくさんありますが、母子交合の民話はあまりないので。
そこまでできるか、国土を失った日本人は。

『日本沈没』第二部で、日本人の血を絶やさないために、たくさんの国の男と交わって、たくさんの子を産む、タナの化身のような女性が登場します。
勇気なのか、使命なのか、そこまで追いやられたことのない者には、何も言えません。

しかししかし、この丹那婆伝説、本来、タナが産んだのは男の子ではなく、女の子なのです。
そうなると、話は俄然変わってきます。
男がいなくなった島だから、よそから男がやってくるしかない。つまり単純に、女護ヶ島の成立の話になります。そもそも八丈島は女だけの島、女護ヶ島の別名なのです。

さて、母子交合説を広めた近藤富蔵は、江戸時代、農民7人を惨殺して八丈島に島流しとなった武士で、表向き八丈島の文化財や史料を整えた功労者でありますが、なんともはや、キナ臭い人物かと。

だからといって、近藤が100%の創作をしたとも言い切れないのです。
60年間も八丈島で流人として過ごした近藤、自称であれタナの末裔に出逢わなかったとは、誰にも証明できないのです。

タナとは、いったいどこから湧いた名前なのか。タナとは、タネ、種子を意味するのでしょうか。

神話はいつまでも古くならない、常に生まれたての新しさ。
洪水神話、我がトラウマ、です。