古代ペルシアと聞くと、ギリシア側から見ていた自分がいます。
小国のアテネとスパルタが、巨大なオリエントの帝国を破る、どきどきしますね。
ですが、奈良にはペルシアの残り香が。
紀元前、アケメネス朝ペルシア帝国、セレウコス朝シリア王国、アルサケス朝パルティア王国、そして7世紀、サーサーン朝ペルシア帝国。
イスラームの怒涛の勢いに、栄光の古代ペルシア帝国は瓦解しました。
その余波で、サーサーン朝の亡命政府がおかれていたトカラ国(大夏、トハリスタン、もとバクトリア)から王族一行が、斉明天皇の飛鳥の宮廷に落ち延びてきました。
この一行を率いるダライ王子は、娘であり妻である王女を連れていました。
ギョッとしますが、近親婚を奨励するゾロアスター教が古代ペルシアの国教であり、イスラーム教に塗り替えられる以前のイラン系民族では、特に高貴な人々においては、あたりまえのことだったのでしょう。
先の記事で書いた大月氏の女王についても、そんなことを少し考えました。
ただ、月氏の宗教は、よくわかっていません。その名の通り、「月」を信奉したとも。
実は月氏の天敵である匈奴も、太陽と月を崇める上天信仰だそうで。
遊牧民に通じる何かが見えてきそうです。
トハリスタン、もとバクトリア。アケメネス朝は、スキタイに対する国境防衛として、帝国東北部のバクトリアとソグディアナを強化しました。漢における対匈奴みたいなものです。
かのアレクサンドロス大王をも悩ませ、迷わせた地、バクトリア。
バクトリア、今現在のアフガニスタン、昔も今も文明の十字路。
私にとっても、永遠のあこがれの地です。
スキタイも月氏もトハリスタンも支配層ペルシアもサカも、根っこは同じイラン系遊牧民です。
洋の東西問わず歴史学は都市国家にばかり注目してきたかと。
遊牧の民の多くは文字をもたなかったとされ、それが彼らを軽視した理由の大本でありました。
それでもスキタイの遺物の見事さは、文化のなんたるかを一目で知らしめるものです。
ペルシアもアジアです。
日本もアジアです。
そろそろペルシア側からギリシアを見ようかと。
奈良県橿原市のおふさ観音。
毎年薔薇を楽しみに通うお寺です。
このお寺にはカフェがあり、カレーライスはハーブがたっぷり、おいしいのです。薔薇ジュースもあります。
薔薇の栽培は古代ペルシアで始まりました。薔薇の原産地も、西アジアから中国にかけて。中心はやはり、ペルシアです。
今もイランのシーラーズは、薔薇の都と呼ばれています。
ダライ王子は捲土重来を決意し、トカラ国に帰っていきました。
飛鳥に残された王女はひとり、父の娘を産みました。
父が戻ってきた形跡はありません。
波に散ったのか。
砂に埋もれたのか。
凶刃に斃れたのか。
日本のことなど、忘れさったのか。
飛鳥にも、薔薇が咲いていればいいのに、と思いました。
遠い西域からやってきた、ペルシア人の王女、ふたりのために。
『薔薇二曲』
北原白秋『白金之独楽』
一
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花咲ク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
二
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。