飛鳥へ

ふたりの王女 ―鏡王女と額田王―

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「ふたりの女王」ならイングランドのエリザベスとスコットランドのメアリですが、「ふたりの王女」は本邦での鏡王女と額田王。
少女漫画の金字塔『ガラスの仮面』の劇中劇でもありましたか。オリゲルドとアルディス、最高でした。

673(天武2)年2月27日
天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女生しませり。

683(天武12)年7月4日
天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊ひたまふ。

683(天武12)年7月5日
鏡姫王薨せぬ。

ふたりの王女についての記述は、『日本書紀』のこれらのみ。
つまり『万葉集』の歌から、後世に碩学鴻儒のみならず市井の好事家までもが我も我もと想像の翼を拡げたのです。
古代史のロマンは明白に、詩歌から産声をあげたものなのです。

だから、ふたりの王女が姉妹であったとは断言できないのです、史料のうえからは。『万葉集』は、作者が作った本文が第一資料であり、編者が後から付加した題詞は二次資料となるので。
ただ、ふたりとも女であることは確実、「姫」の字がついていますので。
この時代における「姫」の字は、身分云々以上に性別を知らしめるものと私は捉えています。
ただし、「姫」の字はこの時代、天皇の娘には用いません。王族の娘に用いたのです。
貴族や豪族の娘は「媛」の字を用いました。
ここらへん、真剣に研究するのも楽しそうです。

性が交錯することもあり、以下完全に私の独断と偏見ですが、天智天皇が生涯かけて愛したのは藤原鎌足としか思えませんし、持統天皇が人生で最も愛したのも異母姉妹の明日香皇女としか思えません。

古代人は、眷恋の相手の死出の旅路に伴うように、我が想いのたけをそそぎこむ、私はそう捉えているのです。
弔いの姿こそ、愛情の顕現だと。
挽歌こそ、恋歌だと。

では、天武天皇の最愛の相手は?
『日本書紀』に記された「鏡姫王」は、「額田姫王」のことと思えるのです。
いやそうなると、(私の妄想上)天智天皇の後胤を孕んだ鏡王女は、額田王そのひとになってしまいます。

慧眼の方ならもうお気づきでしょうが、鏡王女の読みは、「かがみのおおきみ」ではなく、「かがみのおおきみのむすめ」と読むべきなのです。

前述の『日本書紀』では額田王こそ、「かがみのおおきみのむすめ」と明言されています。

つまり、額田王は、鏡王女でもあるのです。

すべて私の妄想ですが、ふたりの王女の実情にはつまびらかにできない事情があったことは確かでしょう。

本邦初の勅撰正史『日本書紀』は、他でもない、藤原不比等がProduceしたもの。

語りたくないことは語らない。だからといって、100%の嘘もつかない。
それまで累積された歴史や文化を根こそぎ殺いでしまえば、さすがの不比等もただでは済まない。
諸豪族や王族と渡り合って不比等が出した結果の『日本書紀』、と私は思うのです。

おそらく、脆弱な日本列島なんかでごちゃごちゃ内乱を起こすのは馬鹿らしさの極みと、唐の動向に精通していた不比等は割り切っていたのではないでしょうか。

常に研ぎたての剃刀のように、飛鳥時代の生き証人、藤原不比等は頭抜けた切れ者です。

二人の王女を生み出したのは、誰あろう、藤原不比等なのです。

奈良県広報誌『県民だより奈良』2021年3月号、連載「はじめての万葉集」で、奈良大学通信の史料学概論の担当教官、吉川敏子先生の論文『鏡王女考』が取り上げられていました。

吉川先生は鏡王女の父親を古人大兄皇子と推察されました。
自分が斃した相手の娘が、自分以外の王族へ嫁したとなると、その王族を巻き込み自分へ反旗を翻す、それを防ぐために、倭姫も鏡姫も、葛城中大兄皇子は悉く娶った、と。

すごいなあ!
こんな考え方もあるんだ!
非情かつ怜悧な政略結婚、中大兄なら進んでやりかねない。
古代王権の婚姻制度が先ず愛情から発生するわけなどないと鼻白む不人情な輩の私、吉川先生の説には快諾も快諾でした。

『鏡王女考』、全文知りたいので、奈良大学図書館のレファレンスから文献複写を取り寄せようと決めました。

吉川先生は、私の妄想の力を認めてくださった最初の先生です。
自分で考えることが学ぶこと、そう教えてくださった先生です。
先生とは、こういった方を指すのです。