飛鳥へ

持統天皇 Lady Admiral

松本清張の小説『迷走地図』、内容はさておき、子ども心に「なんてすてきな題名」と感心していました。
そんな私が描く地図、迷走ならぬ、『妄想地図』。

King of Kings 妄想のなかの妄想、それは、天智天皇のふたりの妃。ひとりは、古人大兄皇子の娘、倭姫王。もうひとりは、蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘、持統天皇の生母です。
私は、上記二組の父娘は、同一人物だと思っています。

さて、妄想地図の舞台は、大和の吉野。
奈良県吉野郡大淀町は、たいへん興味深い文化財調査を行っています。
詳細は大淀町のホームページをご参照のほど。

平成28年度大淀町地域遺産シンポジウム『吉野宮の原像を探る』の演題のひとつ、大淀町教育委員会学芸員の松田度(わたる)先生(森浩一先生直系のお弟子さん)の講演『僧形の皇子たちーいざ、吉野へー』が、私のモノクロだった妄想地図を、孔雀石・辰砂・鉛丹・瑠璃・胡粉、岩絵の具で多彩に塗り替えました。

最古の山寺といわれる大淀町の比曽寺。吉野寺、とも。
ここを吉野宮として、蘇我馬子の孫である古人大兄皇子を中心とした、蘇我氏の手勢が駐屯していた。
蘇我宗家は、のちの天智天皇こと葛城中大兄皇子を切り込み隊長として、入鹿と蝦夷が弊えられた後、蘇我馬子の孫である石川麻呂に襲名される。
蘇我氏は乙巳の変を境に、勢力版図を南下せざるを得なくなっていた。しかしそれは、それ以前から、吉野一帯の山川に蘇我氏は浸透するように深く関わっていたことを示す。

果たせるかな、蘇我馬子の孫であるふたり、古人大兄皇子と石川麻呂のふたりともが、葛城中大兄皇子に殺された後、その吉野の山寺を継いだは、鸕野讃良皇女、のちの持統天皇、そのひと。

おもしろいでしょう。
続きは、『吉野宮の原像を探る』の資料がネットに開示されていますので、どうぞ。


ちなみに、古人大兄皇子と石川麻呂が同一人物という説は、あまり一般ではありません。
大海人皇子と古人大兄皇子が同一人物の説はかなり人口に膾炙していますが、それでは「娘ふたり」が片づかない、のです。
娘ふたりとは、どちらも天智天皇に嫁いだふたり、です。

比曽寺の「曽」の字は蘇我氏の「蘇」の字でもあるそうな。では「比」は「妣」ではないでしょうか。妣は「はは」と読み、妣国(ははのくに)から亡き母、先祖としての大いなる母、を意味します。
「妣蘇寺」、「蘇我氏の偉大なる母の寺」とは、私の妄想ではありますが。
吉野川北岸の世尊寺、すなわち比曽寺跡を見る目が変わりました。


日本最古の山岳寺院は、実の父に母方の一族の中枢を破壊され、幼くして蘇我の総領の御職を張るを認められ、吉野の山川こそ我が本陣と定め、まつろわぬ民を率いて無言で闘い貫く人生を選んだ、持統天皇の牙城。

仏教伝来の立役者の蘇我氏。仏教は当時、最先端の知識の宝庫であり、最高峰の技術の試金石であり、何より先ず法律でした。(宗教一辺倒で歴史における仏教を捉えるような、そんな頑迷固陋な人はいないはずですが、一応説明。)
つまり寺を築くは、要塞を構えるに等しい。しかも、吉野の山に寺を築くとは、役小角が頂点の、修験者の情報網の拠点を構えるに他ならない。
私が天智天皇なら、こんな軍事と諜報に長けた甚だ恐ろしい「もうひとつの都」、当然、潰しにかかります。

もしかしたら、蘇我の総領に幼くして持統天皇が選ばれたから、石川麻呂とその娘の遠智娘は天智天皇に殺されたのかもしれない。
祖父と母は、抽ん出て慧敏に生まれついた娘に、一族の命運すべてを懸けたのかもしれない。
それほどの天才性を持統天皇は一身に帯びています。

©O-DAN

神も仏も私は信じていない。
ただ、祖父と母だけを、信じている。

これすべて私の妄想。
持統天皇の天才性を除いて。


吉野と蘇我氏の結びつき、松田先生の説、独自の新鮮さと共に、不自然な解釈のない(ここが妄想と異なる)、つまり優れたものだと思います。

いやまあしかし、むかしむかし10歳前後の私、鸕野讃良皇女のその鹿爪らしい名前を初めて知ったとき、「なんでこのヒメミコだけ、こんなエラソウな特別な名前なんだろう?」と訝しく思ったものです。
いや、本当に、このヒメミコは、日本古代史における特別な存在なのだと、改めて気取らされました。

僧形の皇子たちの影に、神功皇后めいた『姫辺境伯』が隠れていたのだと。

Lady Admiral !

持統天皇は私の妄想地図の主役です。