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夢も希望も野望もまぼろしも ―レガリア「王のしるし」―

これまで獲得した奈良大学通信でのレポートや試験結果の詳細は、もうあまり書かないようにしようと思っていましたが、史料学概論は格別に思い入れのある科目だったので、詳細を綴ろうと思います。
史料学概論のレポートは、着眼点と独創性がA以外は、低評価。述べよ、なのに、論じてしまったので、仕方がない。ちなみに試験は100点取りました。得意な木簡の問題だったので、幸運でした。
コロナ禍の前の完全暗記のころの試験で、奈良大学通信教育部棟の自習室に朝早くから閉じこもり、吐きそうになるくらい10題回答をひたすら書いて書いて指に覚えこませて5時間後、夕方の試験に臨んだものです。
あれが今生最後の満点だと思っています。

 考えることが好きで、日頃から様々な学習をされていることがよく伝わってくるようなレポートです。
 史料の種類別に章立てされているテキストを、天武‐草壁皇統と藤原氏との関係を軸にした政治史的な観点から再構築した着想は読んでいてもなかなか面白いものでした。
 ただ、全体として言葉の使い方が不自然な部分や誤字も多く、発想に表現力がついていけていないとも感じました。
 また、課題レポートとしては木簡や銘識の定義が不正確であることや古文書や編纂物の史料としての特徴などに関する言及が欠けている点はかなりの減点材料となります。
 オリジナルの発想力や意欲は大いに評価できるものですが、課題意図の達成度という面では若干の不安が残ることも否めません。今回はテキスト序章の各史料の定義や性格に関する部分を丁寧に再確認することを条件に、条件付き合格ということにしますので、必ず確認しておいてください。
 せっかくの発想力を生かすためにも、注意深く理解することや論理的な説明能力を養うことは必要不可欠ですので、今後もこのような注意を保ちつつより一層丁寧に読み書きすることを心掛けて学習されることを期待したいと思います。

なんだか、吉川先生の講評を書き写しているうちに、泣けてきそうになりました。
課題を度外視して好き勝手な持論をよこしたこんなあんぽんたんに、一から十までいやそれ以上のきめ細かな教えを説いてくださって。おまけにレポート、条件付きの温情で、一発合格までくださって。

吉川先生、ほんとうにありがとうございます。いままで「先生」と呼べる人には何人も出会ってきましたが、ほんとうの意味で私の先に立って生き方を教えてくださった先生は、吉川先生を含めて数えるほどです。

奈良大学通信に入学して、ほんとうに良かったと思ったものです。

下村観山『光明皇后』©Wikipedia

史料学概論のレポートを書いているとき、ほんとうに楽しかったと、思い出しました。

まあ、課題から逸脱したポンコツ小論ですが、それでも今読み返してみたら、我ながらなかなか面白いと感じました。

まーったく参考にならない結論部分だけ、ここに開示してみます。
これは、東野治之先生著の史料学概論のテキスト『日本古代史料学』を通読して得られた、私なりの「へっぽこ史観」です。

 本論にて様々な史料を様々な方法論でもって検討した結果、主要人物として「①崇拝され神格化された聖徳太子」「②太子信仰者である橘三千代」「③橘三千代の娘であり、藤原氏の未来を嘱望された安宿媛のちの光明皇后」「④天智と天武の孫であり、元明の娘を妻とする長屋王」「⑤皇族以外の母から生まれ、皇族以外の妻しか持たない聖武天皇」「⑥天智と天武と持統の孫であり、文武の皇后に値する立場におかれた元正天皇」「⑦天智の娘であり、文武と元正の母である元明天皇」「⑧すべてに陰に陽に関わっている藤原不比等」が挙げられる。
 なぜこれほどまでに太子の神格化が図られたのか。それを遂行したのは橘三千代であり光明皇后であり、藤原氏の意向によってであることは明白である。藤原氏がそこまで太子を求めた理由に、長屋王の存在を除外できないであろう。
 偉大な太子の信仰を簡潔に述べることは難しいが、奈良時代の藤原氏がどういった世情を生きていたかを史料の上で検討した結果、先ず屋台骨である藤原不比等を亡くし、次に長屋王の変よりわずか数年の間に不比等の息子四人を相次いで亡くした、言わば女だけが生き残ったような状況であったことが浮き彫りにされる。つまり、女性を救う思想が求められたといえよう。法華経は女性になじみ良い経典であり、一族郎党死に追いやられた長屋王の悲劇と太子の子孫たちの悲劇とが重なり合うのも、橘三千代や光明皇后には看過できなかったと推察される。

 奈良時代における藤原氏の栄華は、天武天皇の皇統に巻き付いて得られたものではあるが、それは天智天皇の娘である元明天皇には、容易に肯首できなかったのではないか。元明には息子文武の忘れ形見である孫聖武のほかに、長屋王に嫁がせた娘吉備内親王より輩出した孫数人も存在し、それらを「皇孫」と特別に遇した。不比等亡き後、元正は長屋王を右大臣に迎え、朝政の要とした。辛巳事件、聖武の生母藤原宮子の呼称について公に異論を唱えられるのは、その出自の整いあがった長屋王以外になかったのである。元明の長屋王への傾倒ぶりも、聖武とその背後の藤原四兄弟には薄氷を踏む思いを抱かせたにちがいない。
 元明が崩じ(721)、元正が聖武に位を譲ったと同年、辛巳事件が起こり(724)、聖武と安宿媛に基王が生まれ(727)、基王が夭折したと同年、藤原氏以外の室から聖武に安積親王が誕生した(728)。安宿媛の立后を希求する藤原氏の野望が潰えかけたそのとき、長屋王の変は起きた(729)。元明の肩入れが、長屋王に興隆と滅亡を与えたともいえよう。けだし長屋王がいかに特別な存在であったかは、その邸宅跡より出土した木簡群が多弁に語ってくれている。

 元明が娘氷高皇女を皇太子待遇と処したのは、病弱な息子軽皇子の将来性を見限っていたからともとれるが、忍び寄る藤原氏の野望に対する自衛策であったとも推察できる。元明が即位したのも、元正が即位したのも、総じて文武の息子の聖武を補強するものである。しかしとらえようによれば、その元明元正の母娘二代にわたる権威の箔付けは、藤原氏に沿うようで皇統そのものを強化したものともみられ、稀代の政治家である不比等を相手に粛々とパワーゲームを展開した元明の甚大さが透けて見えてくる。
 赤漆文欟木厨子(正倉院蔵、国家珍宝帳記載の献納宝物で、天武から持統・文武・元正・聖武・孝謙の歴代天皇に伝領されたという、極めて由緒正しい品)が唯一元明のもとに渡らなかった、その「欠員」の圧倒的な存在感は、元明が即位の名分に「天武天皇の息子の妻」ではなく「天智天皇の娘」を採った『不改常典』に忠実である。
 また、元正における赤漆文欟木厨子は、皇統の継承が男系にあった事実を裏付ける史料ととれる。女性継承が可能であるなら、元正は「天武天皇の孫」ではなく「元明天皇の娘」を採るべきであり、それが筋合いならば赤漆文欟木厨子の所持者には元正は当然、文武も該当しなかったはずである。なお、皇統譜に記されたこれまでの女帝四人(推古・斉明・持統・元明)はすべて、天皇もしくは皇太子の妻であった。元正が端緒を切った、たったひとりで天皇の位に立った女とは、更なる論議を萌芽する存在である。

 長屋王が一族とともに滅亡した後の、聖武天皇と光明皇后の仏教傾倒は、東大寺を始めとした平城京の仏教文化として現在にまで敷衍されている。仏の教えに救いを求めれば、これまでの自らの行いを反芻せざるを得なくなる。大仏の巨大さは、華やかな天平時代において最も高貴な統治者夫妻の、その茫漠たる空虚に比例しまいか。
 もとより、前述の橘三千代しかり、聖徳太子への信仰の度合いが深まれば深まるほど、それがなにゆえに発したかの理由と結びつく。藤原氏の野望から、奈良時代きっての重要人物である長屋王が一族郎党死滅させられた。その果てに待ち受けていたのは皮肉にも、『大慈恩寺三蔵法師伝』にある仏の教え「因果応報」に従うような、聖武と光明による最も尊い血統の、断絶である。
 母と遇された元正を追うように聖武も崩じ、ほかに打つ手もない気配のなか、聖武と光明の娘阿倍内親王が即位したが、彼女もまた元正と同じく皇位を継ぐ女性として、独身を定められていた。つまり、阿倍内親王すなわち孝謙天皇の即位とともに天武嫡系は終焉が決定づけられたのである。ほどなく、皇太后となった光明は、赤漆文欟木厨子を大仏に献じる形で、手離した。これほど歴然としたレガリア(王権を示す宝物)もないと思われる。

 孝謙天皇のちの称徳天皇、藤原仲麻呂のちの恵美押勝、天平時代の幕を引いた内乱は、不比等の孫にあたるこの二人が起こしたものである。仲麻呂が東大寺に忌まれたという史実は、仲麻呂が仏教一筋に生きざるを得なかった晩年の聖武天皇と異なり、相手が大勢力の仏門であっても懐柔されない強靭さを誇る人物であったからとも推察できる。それさえ凌ぎ、ねじふせた称徳天皇も、天武嫡系掉尾を飾るにふさわしい古代王権的統治者であったとも推察できる。

 以上、それらが真実であるか、流行り歌にもあった「言葉にすれば嘘に染まる」の文字としての限界を覚えるが、数多の史料検討ならびに考古学的方法によってこつこつと解読する楽しみも、また覚えることができた。
 真のフィクサーは沈黙に徹するものであるが、史料という様々な証拠がパズルのように組み合わされると、沈黙の均衡が破られる。論者も、テキストを読み込んでいくうちに、一連の歴史学を見通せた。
 史料学の密度の濃さと、面白さが、このレポートによって論者には諒とされた。

©O-DAN

証明したいものがあって、歴史を学ぶ。

『奈良・佛教大学通信 奈良!奈良!いつもは京都』

『奈良・佛教大学通信 奈良!奈良!いつもは京都』でおなじみ、普通検索観音さん(マンボウさん)の名言です。
そうなんだよなあ、上記の想いがないと、自主学習はとてつもなく難儀なものとなるよなあ。
しみじみ感じ入りました。
私自身、論文として書きたい材料有りきで、奈良大学通信に入学したので。
あの熱に浮かれた想いがなければこんな頭ハゲるような徒労でもって勉強なんてしてなかったよ、と。

熱に浮かれた想い。
そのフレーズ、興福寺の阿修羅王を彷彿させました。
で、そのProducerである光明皇后も、思い出させました。
母橘三千代の一周忌の為に作成された阿修羅王、その容貌は1歳にもならずに亡くなった我が息子基王を映していると。
阿修羅王を手掛けた仏師は、モデルのいない少年の面差しを、いったい誰から引っ張ってきたのか。
それは、亡くなった皇子の母である光明皇后と考えるのがベストではないでしょうか。
娘の面差しを映す少年としての仏像。それが、基王の祖母の橘三千代にとっても、最善の供養となるのでは、と。

で、普通検索観音さんのブログ内で私が口走った戯言を、またも思い出してしまいました。
史料学概論のテスト結果をお褒めいただき、そのお礼のはずが長々と私情を垂れ流し、失礼千万。

自分自身の今後の学習態度の引き締めにもなると思い、ここへ転用させていただきます。

さて私事で、皆様からお褒めの言葉を頂戴し、こどもみたいに照れ照れしています。
いっつも普通検索観音さんのブログをお借りして、とんでもない居候です。

史料学概論は先ず、テキストが良かった、面白かった、です。
私、天平時代が嫌いだったんですよ、実は。長屋王一族への仕打ちが、もう。
ただ、小林行雄先生の言葉「真の考古学とは実証の上に立つ推理の学である」、これを唱えながら、敢えて記紀と続日本紀だけ読んで、白紙の体(てい)で、天平時代と向き合ったんです。

真のフィクサーは、元明天皇ですね。
擬態の女帝です。お見事、です。
実はどの女帝よりも改革を遂げているのに、よくもまあ、ここまで存在感を消したものです。
さすが天智の娘、持統の妹、です。

あと、同情したのは、光明皇后です。
嫌いでした、史料学概論の勉強をするまで。
勉強していくにつれ、だんだんその気持ちに添えました。
光明皇后は、私にはいちばんわかりやすい女性となりました。
今なら私も彼女の立場なら、歯を食いしばってでも長屋王を滅ぼしていたと思います。
だからこそ、夢も希望も野望もまぼろしも、すべて籠めて赤漆文欟木厨子の扉を閉めた、彼女の後姿は映画『ラストエンペラー』の一幕のようです。

興福寺の阿修羅王の容貌は、光明皇后を写したとも言われています。
あのひたむきさ。
あの情熱。

いつか皆様とあらためて、阿修羅王を訪ねてみたいです。