
男には 男の
女には 女の
存在の 哀れ
一瞬に薫り たちまちに消え
好きではなかったひとの
かずかずの無礼をゆるし
不意に受け入れてしまったりするのも
そんなときそんなときは限りなくあったのに
それが何であったのか
一つ一つはもう辿ることができない
誰かがかき鳴らした即興のハープのひとふしのように
くだまく呂律 くしけずる手
後姿だったかしら 嘘泣きだったかしら
ひらと動いた視線 言の葉さやさや
それとも煎餅かじる音だったか茨木のり子「存在の哀れ」
高い梢に
青い大きな果実が ひとつ
現地の若者は するする登り
手を伸ばそうとして転がり落ちた
苔むした一個の髑髏であるミンダナオ島
二十六年の歳月
ジャングルのちっぽけな木の枝は
戦死した日本兵のどくろを
はずみで ちょいと引掛けて
それが眼窩であったか 鼻孔であったかはしらず
若く逞しい一本の木に
ぐんぐん成長していったのだ生前
この頭を
かけがえなく いとおしいものとして
掻抱いた女が きっと居たに違いない小さな顳顬のひよめきを
じっと視ていたのはどんな母
この髪に指からませて
やさしく引き寄せたのは どんな女
もし それが わたしだったら……絶句し そのまま一年の歳月は流れた
ふたたび草稿をとり出して
嵌めるべき終行 見出せず
さらに幾年かが 逝くもし それが わたしだったら
に続く一行を 遂に立たせられないまま茨木のり子「木の実」
あなたは もしかしたら
存在しなかったのかもしれない
あなたという形をとって 何か
素敵な気がすうっと流れただけで
わたしも ほんとうは
存在していないのかもしれない
何か在りげに
息などしてはいるけれども
ただ透明な気と気が
触れあっただけのような
それはそれでよかったような
いきものはすべてそうして消え失せてゆくような茨木のり子「存在」