2022年9月4日、奈良県立万葉文化館にて特別展「平山郁夫展―その旅路を辿る―」鑑賞。
『天かける白い橋 瀬戸内しまなみ海道』、これは撮影可の作品。
この7月にしまなみ海道の生口島の平山郁夫美術館を訪れたばかりで、今年は平山先生にご縁がある年だと。
シルクロードの素描屏風。これら一連の作品、山梨の八ヶ岳にある平山郁夫シルクロード美術館から。
平山先生の作品は、印刷物より実物のほうが圧倒的に素晴らしい。
見る側に想像の余地を残しておられる。まるで残照のような切り口。
中学生らしき少年の群れが一生懸命に鑑賞している姿、ほほえましかったです。
万葉文化館のポーチ。向こうに見えるは、音羽山かな。
せんとくん、一年ぶり。鹿の角を計測しなければ、息子の方が背が高くなりました。
せんとくん、マスクしてるの? 大きなマスク!
帽子を忘れた息子、急遽、車につみっぱなしの粗品のタオルを頭に巻きました。
息子「タオル、意外と涼しい」との言。
意外なんてとんでもない、タオルは日除けに充分効果あります。
ここは桜井市高塚、NAFICなら食と農の魅力創造国際大学校の安倍校舎です。
学生の研修施設でもある「オーベルジュ・ド・ぷれざんす桜井」が併設されています。
高台にあるので、景色がごちそう。眼下は、古代の磐余の邑。大津皇子は、ここ、磐余に住んでいました。
百傳磐余池尓鳴鴨乎今日耳見哉雲隠去牟
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去るのだろうか。
大津皇子『万葉集』巻3・416
左は大和三山、目の前には池之内古墳群、右は三輪山や龍王山。大和平野を一望できます。
これは治めたくなるよ。野望の限り。
大学校とオーベルジュを後に、正面の建物を探訪しに向かいました。
主人が先ず偵察に向かったのですが、戻ってこない。
「パパ! 救けに行くで!」
丘を階段で登った先には、NAFIC併設セミナーハウスでもある「ホテル奈良さくらいの郷」。
昨日9月3日にオープンしたばかり。
なんのことはない、生まれたての施設の探索に主人は夢中になり、私と息子を失念しただけでした。
オーベルジュと比べて、とてもお値打ちな宿みたいです。
しかし、最寄り駅の桜井駅から自動車で10分とは、微妙な距離。
二上山、たいへん美しい。
生と死が一望できるというのは、夭折を余儀なくされたけれども懸命に生きた皇子の軌跡を辿ること。
皆、訪う、1300年前の面影を追って、ももづたふ磐余の邑を。
山田寺跡へ。NAFICの程近く、桜井市山田、地名がすべてを物語る。
なんて広いのか! 蘇我倉山田石川麻呂建立の、法隆寺より古い木造建築、それが山田寺。
覚えていないな、もう。ここに初めて来たのは、いつの日か。
私は母の趣味で、赤ん坊のころから大和一円の寺社仏閣を訪れていましたので。
回廊の外に立てられた宝蔵。ここから出土したのが、手のひらに乗る五尊像の銅板。
鋳造鍍金製なので、当初は金色に光り輝いていたはず。
回廊の基壇。ああ、たまりませんね。とても精巧なレプリカです。
東面回廊跡の礎石。焼けた跡まで表現されています。
蓮弁がくっきりと。礎石からして、大寺院だったことが推し量れます。
左から、塔と金堂の基壇。
塔は、天武天皇の治世に、石川麻呂の孫の持統天皇の意志で立てられたようです。
あ、看板を撮影しただけで、肝心の礼拝石を撮るのを忘れた。
これ、何なんでしょう。
ここで、石川麻呂が亡くなったのでしょうか。
撮影しなくて良かった。
蘇我氏がどれほどの権力を誇ったか、山田寺跡をざっくり眺めただけで見せつけられたような気がします。
黙禱しました。
蘇我宗家を継いだ石川麻呂、抗うことなく自死した大臣の無念、推し量って余りありました。
そして、ひしひしと、蘇我宗家を祖父から継いだ持統天皇の、すべて凍りつかせるような執念も、私には更なる黙禱を促すものとして、想像が容易に叶いました。
持統天皇がどれほど父である天智天皇を憎み、初志貫徹生きぬく糧として、その憎悪をいかに甚大に肥やしたか、咀嚼できたような気がしました。
蘇我氏って、何者なのでしょう?
天智天皇はなぜ蘇我氏を、そこまで恐れていたのでしょう?
私にわかるのは、天智天皇が蘇我氏を恐れていたことだけ。
山田寺へ来ればわかる、蘇我氏の恐ろしさが。
延いては持統天皇の恐ろしさが。
磐余、栄光と破滅があざなえる、それでも永遠を目指す、砦。
「もも(百)づたふ」は、百につながっていく数字「五十(い)」の「い」を導き出す言葉で、磐余池にかかります。 「百に伝う」言葉を付すことで、磐余池の永遠性を暗に示しているかのようだ、とも評されています。
『はじめての万葉集』奈良県公式ホームページ