アン・ヴァロニカ
男と一緒に――
その男は生物学の教授――
アルプスへかけおちする前
の一週、女は故郷の家にひそかな
離別の気持を味うので来ていた。
昔の通りの庭でその気持をかくして
恋心に唇をとがらしていた。
鬼百合の花をしゃぶってみた。
「壁のところで子供の時
神
地蜂
おやじ
の怒りにもかかわらず
梅の実をぬすんでたべたこともあったわ。」
この女にその村であった
村の宿屋でスグリ酒と蟹をたべながら
紅玉のようなランボスの光の中で
髪を細い指でかきあげながら話をした
「肉体も草花もあたしには同じだわ」西脇順三郎
思いがけず、霰粒腫で右目の瞼の裏を切開することになり、意気消沈の一週間。腕のいい形成外科の医師にかかっての手術だったので、経過は良好。それでも、さすがに手術当日は痛かった。
「ものもらいはぶり返すから、根絶する意味でも、眼科で針で突くより、形成外科でメスで切ったほうが正解」と、自分で自分に言い聞かせて、日課の「生前整理」の一環として発掘した2009年の夏の京丹後旅行のネガをデジタル化して、安静の暇をつぶして。

16年前の夏、訪れたのは、日本最古の羽衣伝説の残る磯砂山(いさなごさん)のふもとの乙女神社。

ここ乙女神社をお参りすると、天女のように美しい女の赤ちゃんを授かれるそう。

当社の御加護か、翌年に息子が生まれた。しかし、女の子ではなかったわけで。

2009年の夏、私は35歳。ひ弱なりに、我ながらまるで発光しているかのよう。
「ママ、今もあんまり変わらないよ」と息子は言ってくれる。それはそれで、剣呑なのだけれど。
来し方行く末。私は人間というより植物みたいに生きてきたような気がする。ただ素直に繁殖してきただけのような。その繁殖には肉体はもちろん、精神も押さえてはきたつもりだけれど。
それは、片目だけで世の中を見てたった数日、半減した視界をかすめただけの摂理なのだけれど。