
2025年5月3日、北畠顕家の跡を偲んで、その地名も顕彰そのものの大阪市阿倍野区北畠、阿部野神社へ。北畠の隣は帝塚山、大阪市南部きっての高級住宅街です。
阿部野神社は、ここから10㎞ほど離れた大阪湾岸の堺市の石津で戦死した北畠顕家と、その父の北畠親房が祭神の、建武中興十五社の一社です。
私の「人生やり残したリスト」のひとつが、大好きな北畠顕家を偲ぶ社をお参りすることで、ようやく念願が叶いました。

この北畠顕家の像、1991年の大河ドラマ『太平記』に合わせて、造られたそう。Wikipediaによると、除幕式には親房と顕家の父子を演じた近藤正臣さんと後藤久美子さんも参加されたとか。
うーん、もうちょっと、精悍な美青年に仕上げてくださっても良かったかも。公家のなかの公家として誰よりも誇り高くあったと同時に、武家よりも武家らしく竜巻のように疾風迅雷、戦場で暴れぬいて闘いぬいた男なのだから、北畠顕家は。

北畠顕家、生誕1318年4月3日、死没1338年6月10日、満二十歳、数えで21歳。たった5年とはいえ、あなたが「闘う公家」として過ごした5年は、はかりしれない重みと輝きに満ち満ちて。

上品なご年配の方々が、お散歩のコースとして境内で過ごしてらっしゃるのが、とても素敵でした。
あと、授与所の巫女さんが――なんて綺麗な子なんだろう――とってもとっても可愛らしく、純粋無垢そのものの清らかな娘さんで、こちらも心が洗われるようでした。思春期の息子なんか、緊張して挙動不審になっていました。
巫女さん、ちょっと、どことなく、大河ドラマ『太平記』で、北条得宗家最後の執権、北条高時と共に滅んでいった美少女を演じた小田茜さんに似ていました。

顕家さん、この地域の方々からほんとうに愛されている。
明治新政府のイデオロギーより先に、この天王寺の住民たちは、うら若い身空で重責を担うに吝かでないことを露わに文字通り命がけで生きて死んだ顕家さんを、大切に大切に想ってお守りしていたのです。

掃き清められた広大な境内を鮮やかな花のように点々と彩る、南北朝時代をリアル以上にリアルに描く『逃げ上手の若君』の幟旗。
人生の厚みや深みは、長さとは比例しない。
大山崎山荘美術館で、36歳で亡くなった松本竣介画伯についての自分自身のつぶやきを、ここでも再燃。
数えで21歳で花と散った北畠顕家のみならず、『逃げ上手の若君』の主人公、北条高時の次男、中先代北条時行が数えで25歳で処刑されたことも相俟って。
私の本音は、ただいたずらに長く生きることに美徳を感じない、それであるので。

言葉を禁じても、差別など無くならん。そもそも生物には差も別もあるのだから。あるがままで結構なのだ。敬意さえ通じ合えば。
北畠顕家
松井優征『逃げ上手の若君』
強いわけだぜ、北畠顕家。
根津弧次郎
松井優征『逃げ上手の若君』

西に向かっても鳥居が。その昔、天王寺の西はすぐ、海でした。
天王寺の領域を歩き漂うと、説教節の『しんとくまる』や能楽の『弱法師』を当たり前として思い出します。
陰山長者の娘:私はここにいるのだろうか。私など、存在していないのではないか。
陰山長者の娘:――あそこに私がいる!
陰山長者の娘:おまえを見ていると、自分に会っているようで嬉しい。おまえは本当に、いるのだもの。
身毒丸:なにを戯事を。俺はおまえじゃないぞ。
陰山長者の娘:では、私は何者だろう?
身毒丸:自分が何者かなんて、知らないほうが仕合わせだ。
身毒丸:いなくてもいいんだ、自分なんて。俺は自分を消してしまいたい。
身毒丸:消えてしまえ! おまえは、いない!
陰山長者の娘:私は、罪を滅ぼさねばなりません。自分の作った恋の罪を。
陰山長者の娘:恋は終わった。自分の手で終わらせてしまった。身毒丸は顔かたちも変わり果て、もう私の鏡ではない。
陰山長者の娘:私はまた、私ではなくなってしまった。
清水の観音:陰山長者の娘よ、お前はかつて身毒丸に呪いの釘を打った。今なぜまた救おうとする?
陰山長者の娘:わかりません……けれども、身毒丸がいようといまいと、今ここに私はおりまする。それは確かなことでございます。
清水の観音:身毒丸、お前を本復さそう。
身毒丸:戯れ事をおっしゃる。こうなるために、俺は生まれてきたはず。
清水の観音:恨みがましく小賢しい物言いをする奴よ。しかし、誰もひとり勝手に生き死には出来ぬぞ。
身毒丸:誰も?
清水の観音:だれも。
近藤ようこ『妖霊星 ―身毒丸の物語―』

阿部野神社の境内からは、あべのハルカスのタワーが見えます。
私はあのふもとで5年間、医学部の教授秘書と医学学会の事務局を担いました。その5年間で、一度も、こんなにも近しい北畠顕家の命の軌跡を辿ろうとしなかったのは、自分でもその理由、わかりません。
ただ、私も命をかけて働いた、あの5年間、自分の能力を超越する成果を求められ、それに必死で応えた、おそらく寿命の数年間、縮めたほど。
顕家さん、あなたの5年間の戦記、血飛沫と肉弾が飛び交う本物の戦記とは、当然、雲泥の差ではあるけれど。
私にとっても天王寺は、古戦場なのだと。

帰路、あべの筋を北上し、北畠顕家の墓が置かれた北畠公園を眺め、真横に阪堺電車の路面列車、大阪市内を天王寺から難波を経て梅田まで駆け抜けました。
とんでもないほど大勢の外国人観光客でひしめく大阪のメインストリート。
あべの筋は天王寺駅から北になると、谷町筋と名を変えます。淀川から北になると、天満橋筋と。我々は通天閣で道を西へ曲がり、大阪市道南北線で中之島まで疾走しました。水の都、大阪。ここらあたり、大阪でいちばん好きなエリア。
もう、想い出ばかりの街になってしまった――

阿部野神社の限定御朱印、『逃げ上手の若君』の北畠顕家の切り絵。なんてかっこいいのか!

下に敷くのは黒い紙のほうが映えます。額に入れて、いつも花将軍の晴れ姿に見守っていただこうと。