かたたがえ

2025.3.15 天下分け目の天王山にて ―アサヒグループ大山崎山荘美術館―

2025年3月15日、冷たい春雨の降る朝、奈良は今日明日の週末とんでもなく凍りつくとの天気予報、しかも明日の日曜日はさらに風雨強まり極寒の嵐になるとのことから、土曜の内の外出と決め、奈良ほど寒くはならない京都の大山崎町まで足を運びました。

自宅から車で一時間で着いた大山崎町、確かに奈良ほど寒くなくて、風も穏やか。良かった、こっちを採って大正解。

目の前、天下分け目の天王山です。その南の麓に、今日お目当ての場所、アサヒグループ大山崎山荘美術館が。今期の展覧会「松本竣介 街と人 -冴えた視線で描く-」の招待券をいただいたので、初めての訪問となりました。

アサヒグループ大山崎山荘美術館
築約100年の名建築「大山崎山荘」、安藤忠雄設計「地中の宝石箱」「夢の箱」で、民藝運動ゆかりの作品や、モネ《睡蓮》等を展示。天王山中腹に位置し、テラスからの絶景、美しい庭園など四季折々に楽しめます。

駅からとても丁寧な案内看板が辻ごとに掲げられているので、迷うことはありません。シャトルバスも用意されていますが、たった10分の適度な登り坂なので、よほど足の不自由な方以外、さくさく歩いていけるはず。

しかし、息子に「パパとママの普通って、普通じゃないよ」と示唆され。

確かに、私と主人は健脚で、普段からよく動いて歩いていますし、ウォーキングも一日に20㎞くらいならへいちゃらで、中登山も平然とこなします。スポーツ万能の主人にいたっては、そこへトレイルランも組み入れています。

そういや、奈良大学通信教育部のスクーリングでの遠足、寒さで風邪ひきそうになった以外、特に足腰に関してはなんともなかったな。葛城も飛鳥もそれぞれ実際に歩いたのはたった5㎞ほどの短距離で、そもそも奈良の平地なんか高杉晋作でなくても「恐るるに足らず」なので。

おお、大山崎山荘の入り口、なんて素敵な門! 琅玕洞(ろうかんどう)というのです、このトンネル。琅玕とは深緑色の最高級の翡翠を指し、春から夏にかけてがこのトンネルと門が最も美しく見えることを意味します。

ああ、その時期にまた来たい、是非。

この山荘を築くために、山から切り拓いてトンネルから門からすべて設計した加賀正太郎の美意識が貫かれています。

広大で手入れの行き届いた庭園、この時期は水仙が咲き誇っていました。

椿もところどころ咲き始めていて、蕾が膨らみつつある桜の樹々が、ここへの春の再訪を私に迫ってきているようでした。

なんて素敵なアプローチ! ホームページで見ていた写真より、はるかに現物は素敵! 素敵! 素敵!

観る、感じる、その先へ。~豊かな生活文化の創造をめざして~

アサヒグループ大山崎山荘美術館は、大正から昭和初期にかけ建設された「大山崎山荘」の保存再生、活用を目指し1996年に開館しました。
当館では、築100 年以上の建築物や美しい庭園が大山崎の景観と一体となった、特別な空間での作品鑑賞を大切にしています。朝日麦酒株式会社初代社長山本爲三郎が支援した民藝運動にまつわる作品や、印象派の巨匠クロード・モネの傑作《睡蓮》連作などをご覧いただけます。
これまでの歴史や文化を後世に継承していきながら、アサヒグループの一員としてあらゆる世代、地域・国の方々が、芸術文化を観て、感じて、触れて、創造のきっかけとなるような新たな鑑賞体験の場を目指していきます。

アサヒグループ大山崎山荘美術館ホームページ

ごあいさつ

当館は、関西の実業家であった加賀正太郎氏が大正から昭和初期にかけて建てた「大山崎山荘」を創建当時の姿に修復のうえ、安藤忠雄氏設計の新館「地中の宝石箱」などを加えて、アサヒビール大山崎山荘美術館として平成8年(1996年)4月に開館しました。令和5年(2023年)7月には館名をアサヒグループ大山崎山荘美術館に変更し、現在に至ります。

加賀氏がこの地に本格的な山荘を建てはじめたのは、大正元年(1912年)のことでした。加賀氏自らが建物や庭園の設計にたずさわり、時間をかけて完成させた山荘は、緑濃い山麓の自然と調和し、四季折々の美しさで訪れる人を魅了してきました。大正から昭和初期の洋風山荘建築としての文化的価値も高く、平成16年(2004年)には、美術館本館をはじめとする建造物が国の文化財登録を受けています。

加賀氏の没後、加賀家の手を離れた「大山崎山荘」は傷みが激しく、平成のはじめには荒廃寸前となっていました。さらに、周辺が開発の波にさらされるなかで、一時は取り壊しの危機にまで直面しましたが、貴重な山荘の保存と周囲の自然保護を求める声が多く上がりました。加賀氏はニッカウヰスキーの設立にも参画しており、アサヒビール株式会社の初代社長であった山本爲三郎と同じ財界人として深い親交がありました。アサヒビール株式会社は加賀氏と奇しきご縁で結ばれていたこともあり、京都府・大山崎町から「大山崎山荘」の保存についてご相談をいただいた際、そのままの形を残すために、山荘を美術館として再生させることとしました。

アサヒグループ大山崎山荘美術館は、京都府や大山崎町の関係者をはじめとする多くの方々のご尽力で、貴重な建造物と庭園を後世に残すとともに、美術館としての個性を活かした企画展示などに加え独自の文化発信を行っています。こうしたささやかな活動により、ご来館いただいた皆様に喜びと潤いをお伝えできれば幸いです。

アサヒグループ大山崎山荘美術館ホームページ

本 館

加賀正太郎設計 (監修)

美術館本館は、加賀正太郎が別荘として設計し、「大山崎山荘」と名づけました。大正時代に木造で建てられたのち、昭和初期に大幅に増築されます。
加賀は、若き日に欧州へ遊学し、イギリスのウィンザー城を訪れた際に眺めたテムズ川の流れの記憶をもとに、木津、宇治、桂の三川が合流する大山崎に土地を求め、1912年から山荘建設に着手しました。第一期工事は1917年頃に完成します。当時の山荘は、現在の本館玄関ホール部分にあたり、イギリスで実見した炭鉱夫の家に想を得たといいます。1922年に加賀は早くも山荘の改造に着手し、現在の本館は、1932年頃に完成したと思われます。イギリスのチューダー・ゴシック様式に特徴的な木骨を見せるハーフティンバー方式をとり入れ、鉄筋コンクリート造、屋根部分には鉄骨が組まれています。現在喫茶室として使用している本館2階のテラスからは、当時そのままに三川が流れる壮大な風景を眼下にすることができます。

アサヒグループ大山崎山荘美術館ホームページ

山手館「夢の箱」

安藤忠雄設計

大山崎山荘着工からちょうど100年を経た2012年、安藤忠雄設計による新棟、山手館「夢の箱」が竣工しました。
睡蓮の花が咲く池のほとりに建つ、地上1階建ての山手館は、円柱形の地中館「地中の宝石箱」とは対照的に、箱形で構成されています。池に面した本館1階テラス[展示室1]から栖霞楼(せいかろう)を望む従来の景観を崩さぬように、建物は周囲の木々に埋もれるように配置され、さらに上部には植栽がほどこされているため、直線的なコンクリートの建物が天王山の自然に不思議と溶けこんでいます。
山手館が建つ場所には、その昔、蘭栽培で名を馳せた大山崎山荘の温室がありました。本館と山手館をつなぐガラス張りの廊下は、温室へといたる通路として使われていたものです。加賀正太郎が蘭の夢を追いかけた場所から、アサヒグループ大山崎山荘美術館の新たな一頁が始まります。

アサヒグループ大山崎山荘美術館ホームページ

地中館「地中の宝石箱」

安藤忠雄設計

かつての大山崎山荘を美術館として再生するにあたり、建築家・安藤忠雄設計による新棟、地中館が増設されました。地中館は、安藤により「地中の宝石箱」と名づけられました。地中館は、周囲の景観との調和をはかるため半地下構造で設計され、円柱形の展示空間上部には植栽がほどこされています。
地中館と本館は、通路で結ばれています。通路はコンクリート打放しでつくられ、本館を出て両側を高い壁に囲まれた階段を下りると、地中の展示空間にたどり着きます。階段通路の上部四方にガラスを使用しているため、周囲の木々の緑が美しく目に入ります。展示室では、印象派の巨匠クロード・モネの《睡蓮》連作を常設展示しています。

アサヒグループ大山崎山荘美術館ホームページ

あまりに素晴らしい美術館で、大感激! 私はイギリスの建築物が大好きなので、天にも昇る心地! 

館内は撮影禁止なので、ホームページで再確認。ですが、現物には絶対に敵わない! 

ハリー・ポッターのホグワーツの4つの寮のひとつ、グリフィンドールを彷彿と。

Gryffindor グリフィンドール

“グリフィンドールに行くならば 勇気あるものが住まう寮 勇猛果敢な騎士道で 他とは違うグリフィンドール”

グリフィンドール(Gryffindor)はホグワーツ魔法魔術学校の4つの寮のひとつであり、ゴドリック・グリフィンドールによって創設された。組分けの際に重視される点は勇気、騎士道的精神、決断力である。

グリフィンドール寮は勇気と同時に「大胆さ、気力、騎士道」に重点を置いているため、基本的に寮生は勇敢とされるが時折無謀ともとられる。また彼らは短気である場合もある。グリフィンドール生の方が他の寮生より多くダンブルドア軍団や不死鳥の騎士団に入っている。

スリザリンのフィニアス・ナイジェラス・ブラックは、グリフィンドール生はしばしば「無意味な虚栄心」にかられて行動することがあると感じていた。別のスリザリン生セブルス・スネイプは多くのグリフィンドール生は独善的で自分勝手でルールを守らないと考えていた。

Gryffindor common room グリフィンドールの談話室

女子寮に続く階段には男子が入れないように保護のスペルがかけられているが男子寮の階段には無く、女子はいつでも男子寮に入ることができる。これは創始者の「女子は男子より信用できる」という信念によるものである。談話室は快適で、グリフィンドール寮の生徒はここで勉強会やパーティ、レクリエーションをした。壁には過去または現在のグリフィンドール寮監の肖像画が並んでいる。

Harry Potter Wiki

「ママはグリフィンドールの寮生だね」と息子。「それ、あんまり嬉しくないね、バカみたいで」と私。

寮の建築物としての設えは、グリフィンドールはOrthodoxでStandardでSolidで、最高です。

カフェ企画 松本竣介の愛した〈都会×田園〉

東京で生まれた竣介は 2 歳の時、父のリンゴ酒醸造の事業のため岩手に移り、 17 歳で上京するまで花巻、盛岡で育ちました。彼は「田園を愛するように都会を愛している」*と語っています。彼の愛した都会と田園をテーマに、展覧会のための特製オリジナルスイーツをつくりました。作品鑑賞とあわせて、ぜひお楽しみください。
*松本竣介 『 人間風景 新装増補版 』 中央公論美術出版、 1990 より

アサヒグループ大山崎山荘美術館ホームページ

都会の詩情 青いケーキ

竣介の代表作のひとつ《 街 》 をイメージしたケーキです。ベイクドチーズケーキにスポンジケーキをのせて、バタフライピーで色付けをしたホワイトチョコレートクリームと、バタフライピーのジャムを塗りました。スタイリッシュなビジュアルと洗練された味わいをお楽しみください。

アサヒグループ大山崎山荘美術館ホームページ

田園風景 林檎のケーキ

キャラメリゼしたリンゴと軽い食感のパウンドケーキをあわせ、竣介の育った田園風景を思わせるどこかレトロなケーキを作りました。トップにあしらったバニラ風味豊かなバタークリームから、ふくよかな味と香りがひろがります。

アサヒグループ大山崎山荘美術館ホームページ

大山崎山荘美術館でのお楽しみは、展覧会のイメージに則した特別なケーキがリーガロイヤルホテル京都のパティシエにより用意されること。

松本俊介画伯の作品、私は子どものころから知っていて、その上品な詩情に満ちた人物描写や風景描写には惹かれ続けていました。「田園を愛するように都会を愛する」、私も同じく、です。ほんとうに、素敵な画伯だと思います。作品を眺めているだけで、心が洗われるようでした。松本画伯は36歳で亡くなりましたが、人生の厚みや深みは、長さとは比例しないので。

大山崎山荘の内観は撮影禁止ですが、ケーキは写しても大丈夫だと、喫茶室の店員さんに確認しました。青い都会のケーキは軽やかな見た目の何倍も濃厚なチーズケーキで満足感があり、田舎の林檎のケーキはバタークリームとキャラメリゼされた林檎とほろほろこぼれるスポンジを併せて食べると最高のシンフォニー! どちらももちろん、おいしかった!

Ⓒアサヒグループ大山崎山荘美術館

こんな素敵な喫茶室なのです。私たちは、角の奥の席に座って、心あたたまるティータイムを過ごしました。

Ⓒアサヒグループ大山崎山荘美術館

ほんとうに、素敵! 今までたくさんの洋館を訪問しましたが、ここがいちばん、素敵! いちばん、好き!

Ⓒアサヒグループ大山崎山荘美術館

喫茶室のテラスからは、3つの川が合流する最高の景観が見降ろせます。今日は雨でくぐもっていたので、必ず、必ず、春の晴れた日の再訪を誓いました。

Ⓒアサヒグループ大山崎山荘美術館

地中館「地中の宝石箱」は安藤忠雄氏設計のコンクリート造の美術館。アサヒグループが蒐集した芸術作品が目白押し。私、展覧会の内容ばかり頭に入れていて、当館の収蔵品への認識は皆無だったので、地下の美術館を訪れて、面食らいました。

モネ、モディリアーニ、ルオー!?

ええ、私、フランスに来たの!?

キュレーターさんに「こちらの絵画、すべて本物ですか?」と思わず私、伺ってしまいました。キュレーターさんは笑って「ええ、すべて本物です」と。

たまげた。ロダンの『考える人』まで、美術館の階段の窓に埋め込まれて陳列されていたのですから。

いやあ、すばらしい! 大感激! 収蔵品を観に行くだけでも、ここを訪れる価値があります。

Ⓒアサヒグループ大山崎山荘美術館

素敵すぎる展示室、ああ、私が目も眩む資産家になったなら、こんな家を建てる。でももう、私の夢は加賀正太郎氏が叶えてくださっているから、もういいや、夢をうつつに見たければここへ足を運べば。

Ⓒアサヒグループ大山崎山荘美術館

パルミラ饗宴図浮彫

制作時期 2-3世紀

パルミラは、1-3世紀にシルクロードの西の中継地として栄えたオアシス都市で、シリア砂漠に残る遺跡は世界遺産に登録されています。往時の王侯貴族や富裕な市民たちは、石造りの墓所を造営し、棺の蓋などに生前の華やかな暮らしぶりを石彫で表現して安置しました。

本作は、そのような墓所を飾った浮彫の一部です。人物の頭部は、一部を残して破壊されていますが、衣紋や持物の表現も具体的で、人びとの暮らしがうかがえる貴重な遺物です。

アサヒグループ大山崎山荘美術館ホームページ

展示室の奥、私の最も欲しかった光のような、たから、が。

シリアのパルミラ遺跡。イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」は、ローマ劇場を処刑場として扱うなど、ぼろぼろにパルミラ遺跡を破壊した。

心がしんと鎮まる、この高潔な美しさ。

私はどれだけ傷つけられても、立ち上がる。そもそも私は生まれながら破壊されたようなもの。

私は何度も立ち上がる、私を愛する者が存在する限り。

私が遺跡を愛する理由は、それ。何度傷つけられても、立ち上がる、その清廉さ、潔白さ。

帰り道、これも大山崎山荘の建築物? と勘違いした、三重塔。聖武天皇勅願寺院の宝積寺、通称「たからでら」が、大山崎山荘の間近に建立されているのです。

一時は、秀吉もこの寺に住んでいたのです。

ごあいさつ

当宝積寺(宝寺)は神亀元年、聖武帝の勅願に行基菩薩により建立されました。
京都府と大阪府の境に位置し、古来より交通・軍事上の要地であった天王山(270m)南側山腹にあります。
長徳年間(995年-999年)寂昭により中興されました。『続本朝往生伝』(大江匡房著)にも当寺の名が記され、藤原定家の「明月記」にも記されています。菅原道真公も当寺にて出家されております。
天正10年(1582年)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺に秀吉の本陣が置かれ、元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれました。
夏目漱石も当寺を訪れられ「宝寺の隣に住む桜かな』と詠んでいます。 歴史上多くの武人文人が訪れられたこの宝積寺にお参り下さいます様、お待ち申し上げております。

天王山宝積寺ホームページ

漱石来訪の石碑。文豪夏目漱石も、当地を訪れました。加賀正太郎は、この山荘の名前を漱石に依頼したのですが、結局納得するものがなく、自分で「大山崎山荘」と名付けたのです。そのとき、加賀正太郎は若干27歳ではありましたが、天下の漱石へ命名を依頼しながらも反故にできる気骨と自負に満ち溢れていたことがよくわかります。

実際、大山崎山荘というすがすがしいネーミング、ばっちりだと。

正直でかっこつけないところが、反ってかっこいい、加賀正太郎ってひと。

なんだろう、あのコンクリートの説明看板。

うわー、やっぱりここ、天下分け目の天王山なんだ。

秀吉って、ぜんぶ、知ってたんじゃないかな。私には、日本史で一番と言ってもいいくらい賢いと思えるもの、あの成り上がりの禿鼠。

駐車場の植え込み、早咲きの桜が。

桜っていいなあ。心が晴れる。温かい雨を選んで大正解。

私も立ち上がって立ち直った、今日この日、天下分け目の天王山にて。

そう、あの日、秀吉だって得心したはず、この自分、誰にも負けるはずがない、と。