2024年4月6日、大和飛鳥の石舞台、2年ぶりに春の明日香村サイクリングへ。薄曇りで、陽射しに苦しめられることもない、最適なサイクリング日和。
飛鳥川沿いに北上。ちょうど桜が見ごろ、眼福眼福。
見慣れた橘寺も、春景色は格別です。飛鳥のど真ん中の小高い丘、ここが生誕地とされる聖徳太子、いかに皆から見守られていた存在かを物語る。
橘寺から東に見える山は、手前の岡寺がある岡山の向こう、御破裂山。藤原鎌足の墓があるとされています。鎌足は摂津の阿武山古墳に埋葬され、のちに大和の多武峰(とうのみね)に改葬されたと。
御破裂山には先ず、鎌足の長男の定慧が埋葬されました。定慧は、孝徳天皇の御落胤との説があります。幼いころから僧として唐へ行かされ、日本へ戻ってきて間もなく亡くなった、と。
定慧は殺されるために帰国させられたのだと、私は思います。鎌足をもってしても守れなかったのだと、孝徳天皇の遺児の存在を断じて認めない「勢力」から。
定慧にしても、殺されてもいい、死んでもいい、そう腹をくくって帰国したのかもしれない。
息子は一目会いたかったのかもしれない、父に。
育ててくれた、逃がしてくれた、たったひとりの父に。
国難の際には御破裂山が鳴動するとの説は、平安時代に興福寺と妙楽寺(多武峰)の僧兵の競り合いから始まったとされます。
飛鳥時代から奈良時代にかけては? 定慧の無念を受け止める存在として、鎌足が御破裂山に改葬されたのでしょう。それらすべて、鎌足の次男である不比等によってなされたはず。
定慧の悲しみ、鎌足の苦しみ、当時まだ少年だった不比等の骨身に、砕くほど刻まれたと。
御破裂山の埋葬者は今や、飛鳥の平地を見守る神となられた。
神に背を押され、いざ、出発。
橘寺からの裏道、通りすがりの明日香村立明日香幼稚園。
四方を美しい飛鳥の自然に取り囲まれた、ほのぼのと可愛らしい幼稚園。
子どもたちにこそ最も恵まれた環境を振る舞う明日香村、すばらしい。
野口王墓、天武と持統の合葬陵に到達。
ここを起点に、まだ訪れていないところへ行ってみることに。
息子「おらたち飛鳥でまだ行ったとこないとこって、あるの?」
あるんだな、それが。
国道169号線の西側、飛鳥駅を過ぎ、細い坂道をくねくね上って、ここは許世都比古命神社(こせつひこのみことじんじゃ)。石段の可愛いカナヘビに誘われ、自転車を停め、ごあいさつすることに。
しかし、古代豪族巨勢氏は大和盆地南西の御所市古瀬が本拠地なので、明日香村のこのお宮さんを許世都比古命神社と指定するのは疑問。
ここらへんの地名が越(こし)だったので、巨勢に通じると、江戸時代に判定基準とされたそう。そんな、ちょっと適当が過ぎるような。
由緒はさておき、ここは小高い丘に祭られた、とても見晴らしの良いお宮さんです。こちらの御祭神がここら一帯の地主神であらせられることは確かでしょう。
歩く土にも苔生して、緑に溢れて、気持ちいいね。手入れの行き届いた綺麗なお宮さん、氏子さんたちから大切にされているのでしょうね。
桜の大木が満開で、風が参道に花びらを散らしています。
よう参りに来てくれた。そう歓迎されているような。
飛鳥未踏の地、それはまさかの牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)と越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)。
2010年に八角墳であることが判明したとき、とんでもない人数が何時間も行列をなして見学した、あの。
熱狂に包まれるのが性に合わないので、私はいつも旬が過ぎてからそこへ足を運ぶ。
おかげさまでここも貸し切り。
2022年に復元整備が完成したとのことですが、古墳と思えん、ここは公園か?
先ずは模型広場で、牽牛子塚古墳と2010年に発見された越塚御門古墳の配置を予習。
復元模型の横、説明看板。
説明石碑。
日本語の文面。
図での説明。
これ、なんですか?
切石ですって。
飛鳥は本物の石造物群が野にポンッと置かれているから、これも本物かも。
私、実のところ、古墳にはそんなに興味はございません。
子どものころ、葛城市の古墳で蚊の大群とヤスデとムカデとその他ありとあらゆる怒涛の数の虫に出くわし、おまけにマムシやイノシシなどこちらの命まで奪っていきかねない獰猛な野生生物の後ろ姿も拝んでしまい、いくら田舎育ちの私でもこれは罰ゲームに等しいと、はやばやと古墳探索に興味を失った次第。
あと、邪馬台国論争も苦手なのが、古墳に興味を失った理由の一環。
しかし、後期古墳の八角墳は、けっこう好き。
それは天皇クラスにしか造成されないので、先ず、数が少ないから。つまり埋葬者の指定が比較的容易だから。やっぱり私は人間が好きなので。
で、八角墳についての説明石碑。
八角墳、畿内に5基とな。
5基のうち唯一奈良県外に造られた御廟野古墳とは、天智天皇の山科陵。
八角墳の真横だから、この説明石碑か。
図の説明、上部。
図の説明、下部。
うわ、この小さな説明石碑、見落とした! ええい、また来るわ!
これ、造営された当初を模しているので、べつだん現代建築っぽくしたわけではありません。
やっと牽牛子塚古墳の入り口へ到達。ガイドさんが常駐されていました。
石室を覗けます。こんにちは、失礼します。
大きな岩をくりぬいて(!)石室がふたつに分けられている。これが、斉明天皇とその娘の孝徳天皇皇后間人皇女のお墓。天皇と皇后、そのクラスの者しか八角墳には埋葬できないということらしいのですが。
それでは自分と孫の建皇子を必ず一緒に埋葬するよう命じた斉明天皇の遺言はどうなるのか。
この石室の手前、仕切られていない僅かな空間、そこに何かを見出したいのは私だけではないはず。
建皇子は数えで8歳で亡くなった。現代なら小学1年生、つまり7歳にもなっていなかったかもしれない。たった6歳の男の子の棺なら余裕でここに置ける。私にはそう思えました。
ガイドさん「前日までに連絡くださったら、この石室の手前までご案内できますよ」との言。ああ、ぜひ、次の機会に行かせてもらおう。
「どうぞこの古墳のご案内の映像、ご覧になって」とガイドさんが我々を石室へ入れてくださいました。で、しばし映像による説明を視聴。
天智天皇6年春2月27日、斉明天皇と妹の孝徳皇后とを小市岡上陵に合葬した。この日皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬った。
天智紀『日本書紀』
ガイドさん「ここが、越塚御門古墳、大田皇女のお墓なんですよ」
私「ここが!?」
古墳のなかで、案内画像を視聴できるのです。びっくり仰天。
しかも本来、これも前日までに予約が必要だったのですが、こちらはフレキシブルに対応可能だったみたいで、幸運でした。
天智天皇の娘、天武天皇の妃、大伯皇女と大津皇子の母、大田皇女がここに。ああ、生きていたんだ、あなたひとりの存在で、みんなが生きていたことが証明されたようなもの。
なんだろう、早世した大田皇女の存在には、胸熱(ムネアツ)、感無量になりました。
ここだけの話、私は大田皇女は殺されたと思っているので。鸕野讚良皇女、持統天皇に。
論拠は、私が持統天皇なら、そうする。そんないいかげんなものですが。
牽牛子塚古墳と越塚御門古墳は小高い丘の上に築かれているので見晴らしが良く、6kmほど南東の壷阪山にある壷阪寺の境内の、けぶるような桜の園もはっきりと目視できました。
ガイドさん「聖なるラインと言われていまして、天武と持統の合葬陵を始めとした天武系統の王墓、中尾山古墳、高松塚古墳、文武天皇陵、キトラ古墳、それらは北の藤原京と南の壷阪寺までの線上に築かれているんですよ。そして、藤原京の北の果てには、天智天皇の山科陵が築かれているんです」
私「壷阪寺が、すべてを受け止めているんですか?」
ガイドさん「そうかもしれません。なんと壷阪寺の本堂の基壇は、八角形だったんです。壷阪寺は持統天皇が亡くなった年に弁基上人が壷阪山に観音を祀ったのが始まりで、後に持統天皇の孫の元正天皇の勅願寺院となりましたから、持統天皇にご縁が深い寺であることに間違いないでしょうしね」
博識な女性ガイドさんのお話を聞いて私が脳裏に思い描いたのは、恐るべき天智天皇の無念を、真っ向から持統天皇が遮断している、その図面でした。
そして、天智天皇が描いていた「本来の聖なるライン」の要点である牽牛子塚古墳と越塚御門古墳を、「天武系統の聖なるライン」から逸らしているという図面も。
牽牛子塚古墳と越塚御門古墳は、天智天皇を守護し保護する女たちの結晶、「妹の力」。その結晶をこなごなに粉砕するように、まるで無かったものとした、持統天皇。
――ああ、持統天皇、まさに、古代日本最強の天皇!
なんて女…
いや、なんてヤツだ…!吉田秋生『吉祥天女』
私「天智天皇は、お母さんと妹と長女、自分にとって一番大切な身内をきちんと葬って、近江に遷都したんですね」
ガイドさん「きっと、ご自身もこの御陵の近くに眠ろうとされていたと思いますよ。ここは天智天皇の故郷ですからね」
私「帰ってきたかったでしょうね」
ガイドさん「帰れなくされたんでしょうね」
たましいのかえるところ。
先日、近江大津宮のあたりを散策したとき、何かを背負ったのかもしれない。
肩の荷をがここで下りた。
天智天皇、葛城中大兄皇子、あなたの帰還をいまもなお、あなたの娘の鸕野讚良皇女、持統天皇が、その全身全霊でもって阻み、防いでいる。
あなたはなんともはや強い娘を生したのか。
あなたは更に、その娘を逆境に落とすことにより鍛えぬき、怪物めいた傑物に育てあげてしまったのか。
わたしはねえ、怒っているのよ…
わたしが生まれてきたことにも、わたしのまわりの人たちにも。
…わたしをとりまくあのすべてのことに、わたしは腹を立てているのよ。
呪っている、と言ってもいいわ…
その感情があるから、わたしはこうして足をふまえていられるのよ。吉田秋生『吉祥天女』
あなたの娘の鸕野讚良皇女、持統天皇、彼女は呪いを吐いて生きてきた。
しかし、天智天皇、葛城中大兄皇子、呪いを吐いて生きてきたのはあなたのほうが先だった。
あなたが遠ざけた娘こそ、最もあなたに近しい、真の王者だった。
なんて悲しい王と王、父と娘なのか。
玉蜻(たまかぎる)たましひ帰るところなく夢の破れの水瓶の空
山中智恵子『玉蜻』
ガイドさんから「岩屋山古墳に行かれたら、玄室の奥の石に、ダーンッと両手を当ててみてくださいね」と言われましたので、帰り道、飛鳥駅近くの岩屋山古墳を訪ねてみることに。
この古墳の前は何度か通ったことがあります。牽牛子塚古墳は駅から500メートルとはいえども坂が多いので、到達するのはなかなかしんどい。しかし、岩屋山古墳は駅からすぐなので、寄り道しやすい。
良い時期に来たなあ。桜満開、まんまるヤドリギの可愛いこと。
ちりひとつない清潔な石室。明日香村の地元の方々は、どれだけ遺跡を大切にされているか、です。
羨道も玄室も、こんな巨大な切石をここまで綿密に美しく組み上げ、見事でした。これは方墳で、八角墳ではありませんが、飛鳥時代の天皇のごく身近な親族の墓であるとされています。舒明天皇の母の嶋皇祖母(しまのすめみおや)が埋葬されたとも。飛鳥駅の西側が、本来の王家の谷だったのでしょう。
息子「ダーンッてしたけど、なんか出てくるの?」
私「飛鳥時代の古墳の石室に直に触れられる、それがいかに貴重か、ってこと」
高松塚古墳の裏の道を行く。暑い! 暑すぎる!
曇り空ですが、気温急上昇。文武天皇陵で水分補給の一休み。
しかし、もう少し手入れしてあげてほしい、御陵。説明看板が風化で傷んでいました。
高松塚古墳エリアを抜けて行きます。なーつかしー!
有名すぎて、だいぶ来ていませんでした、高松塚古墳。
中尾山古墳を通り越し、起点の野口王墓へ。
天武持統の両天皇にも、ひさびさにお参り。
息子、おなかがすいて目が座る。
「腹が減っては戦ができぬ」と、両天皇もお認めくださるでしょうか。
野口王墓の近く、こんな桃源郷のような民家が。
元来た道を戻り、飛鳥川沿い、なんと山羊! ちゃんと綱がつけられていて、野生ではありませんでした。いつもそうですが明日香村サイクリングって、楽しいめぐり逢いに恵まれます。
石舞台周辺のお食事処はどこも混雑。不意に、明日香レンタサイクル石舞台営業所の最寄りの屋台に目が行きました。
いつもは気に懸けず通り越していたのですが、屋台のチャーシューたっぷりラーメンのポスターに目が釘付けになってしまったのです。そして、めちゃくちゃおいしそうな神戸牛の土手焼きにも。
「ラーメンは今から作るさかい、土手焼き、後ろの席で食べててな。三田牛、知ったはる? その肉つこてるから、とびきりおいしいで」と屋台の御亭主。
牛筋と蒟蒻を煮込んだ土手焼き、サイクリングで疲れた体と空きっ腹に染み渡って、とんでもなく美味!
改めてこの屋台、なかなか良い立地。桜が満開の石舞台も充分眺められるし、外で食べると食事はおいしさを増すし。
来ました、チャーシューたっぷりラーメン。ほんとうにチャーシューたっぷりで、スープも麺も抜群においしい! 主人と息子も旨い旨いと唸りながら食べていました。汗かいた後のラーメン、最高!
これはシチュエーションもからみますが、人生で食べたラーメンの五指に入りました。
石舞台は桜の時期、夕方からライトアップされます。お昼過ぎの今、観光客が車で押し寄せてきました。
澄まし顔でラーメンをすする我々を、渋滞の車窓から物欲しげに眺める人々。子どもは「おなかすいた」と叫んでいる。ラーメン食べてる人を見てたらおなかすくよね、そりゃそうだ。
石舞台周辺は混むから、次からは早めにおいで、と言ってあげたい。
たましいのかえるところ。
飛鳥はゆっくり訪れるところだから。