ならだより

2025.1.1 進め、男なら、男に生まれたなら、進む以外の道などない。

2025年1月1日、晴天で暖かく、初詣に吉野へ。吉野神宮へ向かうつもりが、駐車場の空き待ちで渋滞。もう14時過ぎだったので、やむなく吉野山を登って、金峯山寺蔵王堂まで。

蔵王堂の裏手、南朝の吉野宮を通り過ぎ、脳天さん、金峯山寺の塔頭の一つである脳天大神へお参りすることに。

吉野山奥千本西行庵までの崖っぷちほどではありませんが、急勾配の傾斜に450段もの石段で降りて行かなければならないのです。

金峯山寺塔頭 脳天大神 龍王院

御示現

脳天大神様は金峯山寺初代管長 故 五條覚澄大僧正が霊威感得されました頭脳の守護神であります。覚澄大僧正はお瀧のある修行の場所を探し求められる中、現在、大神様が鎮座されている谷がその最適の場所であると考えられ、その後、行場の開発に取り組まれることとなりますが、その最中頭を割られた蛇に遭遇され、それを哀れに思われて丁寧に経文を唱えられ葬られました。その後、その蛇が何度も夢枕に立たれお礼を言われます。最期には「頭の守護神として祀られたし」と云う霊言を覚澄大僧正は聞かれます。また、それと同時期に蔵王権現様から「諸法神事妙行得菩薩(しょほうしんじみょうぎょうとくぼだい)」と云う御霊言も授かられます。実際に形として現れてこられたのは頭を割られた蛇でありますが、蔵王堂(ざおうどう)のご本尊蔵王権現様が姿を変えて出現されたのであります。その後、昭和26年に現在の場所にお祀りされたのであります。

諸法神事妙行得菩提

諸法は一切の仏法、神事は神道で神様の事であります。仏様も神様も両方とも拝むのが、修験の根本の教えであって、どちらも妙なる行法であり、さとりの道であります。つまり、この御霊言には、すべての教え、すべてのさとしが含まれているのです。
「諸法神事妙行得菩提」とお唱えすることにより、正しい方向、正しい信仰へと導かれ、仏様も神様も必ず迷える吾々をおたすけ下さるのであります。

オン ソラソバテイエイ ソワカ

この御真言は弁財天の御真言と同じであります。弁財天はインド伝来の神であります。ソラソバテイエイは古代インドの代表的河神であります。水には諸龍が住むと言われており、また、吉野山から大峯山山上ヶ岳(さんじょうがたけ)までは一つの龍体であると説かれております。脳天大神様もこの龍体に密接な関係がありますので、このご真言とされたのであります。

首から上の守り神

頭は人間にとりまして非常に重要な部分です。脳天大神様はその最も大切な処を守護し、頭の病気や学業試験などの願い事を成就して下さいます。
また、そればかりでなく、あらゆる苦しみを救済して下さり、願い事も叶えて下さいます。

金峯山寺蔵王堂ホームページ

高所恐怖症の私、ひーひー呻きながら石段を下り、脳天さんの社務所の裏手に到着。そこから逆手に鳥居をくぐります。吉野山のなだらかな山脈の、裳裾まで降りてきたということ。

右手は、お百度参りの場で、元旦から祈念に努めている方々がたくさん。首から上の守り神の脳天さん、受験や学業成就はもちろん、頭頚部の病気の御祈祷のためかと思うと、こちらも沈痛な心地になりました。

息子は、まだ早いのですが、一年後に迫った受験の合格御守と御朱印をいただきました。すると、家族分の茹で玉子がお下がりに。

ほっかほかの「にぬき」、とっても嬉しい!

偶然にも、こちらの神様は、頭を割られた蛇とのこと。巳年に最適な神様。

仏教と神道と道教の神仏習合の行場として開かれた脳天さん。私はスペインのコルドバのメスキータを思い出しました。すべてに門戸を広げている、博愛の精神に満ちた場が、ここにも、と。

誰かが大切にしているものを蔑ろにしない、そんな人としてあたりまえのことが、果たされている、と。

私が二十歳のころ、巫女のアルバイトをしているときのこと。お守りやご朱印の授与所に、つかみかかるような勢いで、「仏像をなぜ神社で祀るのか!」と怒鳴りつけるクレーマーが訪れました。私が勤めていた神社はもともと寺院で、仏像を始めとした仏教にまつわる文化財がたくさん保管されていました。神職の方は黙って、その小柄で瘦せこけた貧相な身なりの初老の男の暴言を、傾聴していました。みすぼらしい男の自分を顧みない高慢さに、怒り心頭に発した私が無表情で拝殿の回廊から姿を現すと、そのクレーマーの男、腕で顔を覆うなり、小走りで立ち去っていきました。

「若い女の子の前では、しっぽ巻いて逃げて行ったね」と、神職の方は笑って仰いました。「かわいそうな男でね、あんな性格だから職も続かなくて、家族にも見放されて、もちろん友達もいなくてね。いろんな神社でも難癖つけて、嫌われて」と。「あんな鬱陶しいの、相手にしなければいいのに、なんで話を聞いてやるんですか?」と私が問うと、「廃仏毀釈された仏像と同じように思ってるんだよ、あの憐れな男、行く先はもう、ここしかないんだと、ね」と、神職の方はしんみりと答えられました。「無視されるより、嫌われても人と繋がりたいんだよ」と。

「仏様は、お美しいです。あんな身も心も汚い男と、一緒にしないでください」と私が怒ると、神職の方は大笑いされました。

ふと、そんな、今は昔のエピソードを思い出してしまいました。

で、蔵王堂まで、戻ってきました。それまでに、私、脳天さんの450段の石段を半分ほど上ったところで、不意に、足が動かなくなったのです。瞬時に悟りました、脱水だ、と。なんとか門松が据えられた供養塔のあたりまで辿り着き、バタッと座り込みました。

吾峠呼世晴『鬼滅の刃』Ⓒ集英社

ええ、私も2秒ほど意識が飛びまして、炭治郎と同じく三途の川を渡りかけました。人って簡単に死ぬよね、と。息子が蔵王堂まで走って、お茶を買って戻ってきてくれたので、なんとか命拾いしましたが。冬場のほうが脱水に気をつけなければいけないのは常識だったのですが。

でもね、たった2秒とはいえ三途の川を渡っているとき、炭治郎とこれまた同じく、なんとも言えずいい気持ち。あと、水、水は命の源、お茶を飲んだら一発で治ったもの、体調。

あー、西日が差して、注連縄も新鮮な蔵王堂、キラキラして。

なんか、文字通り、生まれ変わった気がする。目に映るすべてが新鮮。

「ママ、生き返ったね」と、息子も一安心。

黒門の門前、夏場は閉まっている焼き栗屋さんがオープンしていました。トトロが住んでいそうな、かわいい茅葺のお店で、ずっと気になっていたので、嬉しくて立ち寄ると、びっくり仰天、店員さん、狐面!

吾峠呼世晴『鬼滅の刃』Ⓒ集英社

「錆兎(さびと)!」と、私と息子、小声で絶叫。

私、矢も楯もたまらず、店員さんに「写真撮っていいですか」と申し出ますと、快諾してくださり、手を止められ、ポーズまで取ってくださいました。

焼き栗が大好物の私、もちろん買わせていただきました。

お面を当てていらっしゃっても、店員さん、お人柄の良さと柔軟な気立ては手に取れるようでした。

吾峠呼世晴『鬼滅の刃』Ⓒ集英社

錆兎は厳しいのですが、とても立派で、他者のために身を投げる、そんな勇気と仁愛を具現化したような少年でありました。

吉野山の狐といえば義経千本桜の狐忠信ですが、もっと広い意味で、お面というものの非日常性に狐の持つ野生と神秘がかぶさって、ここではないどこかへいざなわれた気がして、これまた三途の川を渡ったような心地になりました。

夢見心地で歩いていると、おいしそうな草餅屋さんに声をかけられました。ご亭主「草餅、すぐ握ります」と。えー、わざわざ! と大感激。これまた「写真撮っていいですか」とお頼みしますと、「いくらでもどうぞ」とご亭主、快諾。焼き栗屋さんといい、吉野の人は明るくて優しい良い人ばかり。

息子、みたらし団子も所望。草餅と合わせて900円だったので、ご亭主のお手を煩わせるのも忍びなく、1000円札を出しながら私、咄嗟に玉こんにゃくも注文。ご亭主「こっちに気を使ってもらって、1000円ちょうどにしてくださって、ありがとうございます」と喜んでくださいました。

「ママって、こういうとき、悪魔的に頭が回るよね」と息子。「そもそも悪魔やからね、ママ」と私。

にぬきと焼き栗と草餅とみたらし団子と玉こんにゃく。大好物ばかりを駐車場に停めた車内でむにむに食べて、大満足。握りたての草餅と、焼き栗は特に絶品でした。

進め、男なら、男に生まれたなら、進む以外の道などない。

錆兎は、炭治郎という男の子相手だったから「男たるもの」に言及していましたが、これは全人類を対象としていると私は勝手に思っています。

進め、心あるなら、心ある者に生まれたなら、進む以外の道などない。

脳天さん、ありがとうございます。蛇は脱皮を繰り返す、頭を割られた蛇とはすなわち死と再生を繰り返した蛇ということ。身をもって、知りました。

吉野山から見る、今年最初の夕焼けがもう、素晴らしく美しく、吉野川までその鬼灯色の夕陽を映し、私もここで死んで、生まれ変われた、そんななんとも良い気持ちで今年の幕が上がった、吉野山での初詣でした。