幻燈

2023.3.26 あ、昔のままだ。 ー映画『AKAI』 なら100年会館ー

 

2023年3月26日、浪速のロッキー赤井英和さんの主演映画『AKAI』を観に、なら100年会館まで出向きました。

……だいぶ泣いたなあ。

なぜ涙が出たのかわからない。ただ、泣いていたのです。

風雨吹き乱れる春の嵐、ダウンコートを着込んで大正解。
観光客の方々、薄着で寒そうでした。
春でも奈良は底冷えするので気温調整は必ず則って、と心で助言。

13時に会場が開くまでに腹ごしらえ。行きつけの餅飯殿商店街の『とよのあかりすずの音』へ。
この塩だれ鶏のセットは初めて。うわ、あっさりして、おいしい! 量も私の胃袋にはちょうどいい。この後、山盛り鶏唐揚げが出てくるし。

お店のお元気お姉さんに「ここら辺で桜の名所ってどこになりますかね? お客さんに聞かれて、いつも困るんですよ」と。
「やっぱり東大寺から飛火野までの奈良公園ですかね。そうか、ちょっと歩くけど佐保川沿いの桜は見応えありますね」と私。
「そこの小学校の桜でも、私には満足なんですけどね」とお姉さん。

そう、お店近くの椿井小学校の校門の桜はたった1本ですがとても綺麗でした。
桜の花は風格があります。

椿井小学校、150周年とな。
奈良市でいちばん古い学校だそう。
街中にあるこぢんまりした小学校、名を冠す椿が当然のように鎮座して。

さて、なら100年会館の大ホール。
息子が生まれるまで、主人と毎年そこで沢田研二さんのライブを楽しんでいました。

ジュリーはいつだって最高で、2008年の大阪ドームでの還暦ライブでも、80曲を最初から最後まで6時間、声質も声量も落ちることなく歌い上げてくれました。

歌詞もほぼ間違えることのないジュリーに、稗田阿礼の『古事記』暗誦くらい充分有り得ると、類比せざるを得なくなったものです。

今回のイベントは招待で、家族3人で訪れました。
赤井英和さんの半生をドキュメント映画に起こしたのは、ご長男の英五郎さん。
おもろかわいい赤井さんの生態をSNSで綴る奥様の佳子さんも、トークショーにご参加。

赤井さんは、生まれ持って圧倒的に華があり、関西人にはLegendそのもの。
ヤマトタケルかワカタケル大王か弁慶か、そのレベルの存在。

このフライヤーの素敵な写真、篠山紀信さんの撮影。
坂東玉三郎さんが「この人を撮って」と赤井さんを篠山さんのもとへ連れて行ったそうな。
赤井さんは素直に素っ裸になって、篠山さんに撮影されたそう。

今回、英五郎さんがこの写真を映画の広報に使いたいと依頼したところ、篠山さんご快諾されたそう。
ちなみに、映画『AKAI』の挿入曲は、なんと映画『Rocky』で、ロッキーとアポロが対決するときに流れていた『Going The Distance』!
映画『Rocky』の挿入曲が貸し出しを許されたのは前代未聞だそうです。
映画『AKAI』では、赤井さん役者デビュー作の映画『どついたるねん』の名シーンも、貸し出しが阪本順治監督から認められています。

「赤井ってけっこういい人なんだな」と佳子さん。

みんなからとことん愛される、それが「英雄」ということなのでしょう。

私が赤井さんを知ったのは、映画『どついたるねん』でした。
これはもう、完璧に近いような映画で、大阪の街並みの青みを帯びた美しさに赤井さんの堂々たる苦しみが重なり、忘れられるはずもない痛みとして、記憶されました。

だから、この映画『AKAI』で初めて、赤井さんのボクサーとしての過程を、私は目の当たりにしました。
喧嘩のような必殺一撃で相手をノックアウトしていた初期から、自分の弱みと強みを秤にかけて闘いに挑むようになった中期、そして、大和田選手との、まさかの「最後」となった試合。

試合寸前までシューズの紐が切れていたことに気づけないほど、闇を抱え、沼に沈み、セコンドのエディさんの声だけがリングを走馬灯のように巡り、大和田選手からラッシュを喰らい続けても朦朧としたまま立ち向かうしかない赤井さん。

英五郎さんの演出にも編集にも、じめじめしたwetさは皆無で、それなのに、私はなぜ涙が出たのかわからない。

ただ、生きるっていうことは、朦朧と何かに立ち向かう、それでしかないのか、と。

だからか、涙が止まらないのは。私も、現に、生きているから。

お笑いタレントの和泉修さんも、この会場に来られていました。
赤井さんと修さんは、浪速高校ボクシング部の先輩と後輩。

修さんは涙を堪えながら、「こんな優しい人はいない」と赤井さんを言い表しました。

大和田戦で脳にダメージを負い、生きるか死ぬかの大手術を乗り超え、それでも、現実は赤井さんから最大の夢と希望を奪い去った。

もう二度とリングには、立てない。

エディさんは、「勝っているときの友達より、負けてからの友達が真実の友達」と、赤井さんに強く諭していました。

赤井さんが生きていて良かったと、心から思いました。

英五郎さんがこんな素晴らしいドキュメント映画を作られ、私たちにこんな充実した時間を共有させてくださったのも、あのとき、赤井さんが生き延びられたから。

赤井さんがなぜ優しいのか。

相手を殺す、自分も死んでもいい、そんな命がけの決意のもと、常に真剣勝負に挑んできた男。

自分がいなくなれば、たくさんの人たちが悲しむ。
だから、耐えているのだと。
だから、優しいのだと。

ああ、でも、どんなにか闘いたいだろう、どんなにか。

赤井さん親子の撮影は可能で、佳子さんはSNSでの拡散もご希望されました。
「全国の映画館を上映会で回り、今日が最終日で、一番大きな会場です。本当に嬉しいです。
奈良は修学旅行が最初で、後は2回くらいしか来たことなくて。奈良の想い出は、鹿、かわいかった!
でも、こんな雨の日にこんな大勢がわざわざ来てくださって、もう、お一人ずつにお伺いしたい、どこが良くて来ていただいたのか」

それはもう、赤井さんに会いたいから、みんな。

観客からの質問にもたくさん答えていただき、その後はサイン会&握手会まで。

会場の客層は一様に年代が高く、なぜか70代以上の方がとても多く、佳子さんは抜きん出て若いうちの息子を見て感激されていました。
「何年生!?」
「6年生です。4月から中学生です」
「ああ、時間があればどうして来てもらえたか、もっと聞きたい……!」
佳子さんはうちの息子に名残惜しそうでした。

佳子さんと結婚できたことが人生で一番幸せだったことだと、赤井さんは仰っていました。

間近で見た英五郎さん、赤井さんと佳子さんの良いところばかり遺伝された端正なお顔立ち、あまりのイケメンぶりに、私、飛び上がりました。
「泣きました。泣くつもりなんてまったくなかったのに」
私が正直に言うと、英五郎さん笑って、とても喜んでくれました。

赤井さんはとても静かな人で、サインも丁寧に書いてくださいました。
「握手お願いします!」と赤井さんに大きな声でお頼みした息子を、「あんた普段そんなシャキッとしてたっけ?」と私は凝視。

息子の後に、私も赤井さんに握手をお願いしました。
そのとき、ゆっくりと、赤井さんが射貫くように私を見つめ上げた、その、まなざし。

あ、昔のままだ。

私の両手をくるんだその両手は猫科の手のひらの柔らかさで、ひんやりと冷たく、湿っていました。

私は怪力乱神は嫌いですが、それでも「人を超えたような人」を見ると、逆説的に「神」っているのかもしれないと、バカげたことを思わざるを得なくなるのです。

赤井さんこの人は、胸の野獣を飼い殺してはいない、いつかまた命を賭けて闘う、神話の世界の住人だ、と。

昔のままだ、と。