『While My Guitar Gently Weeps』はThe Beatlesの楽曲の中で私がいちばん好きなもの。
作詞作曲者のジョージと、ギター奏者として参加したクラプトンは親友、彼ら二人とパティ・ボイドとの関係、必ずここまで考えが到ってしまいます、この大好きな「泣きのギター」を聴くと。
悪趣味上等、いわゆる三角関係、私は好きでして。
奇数の危うさと妖しさ、鼎の軽重を問うことの不謹慎さ、ひとのものが欲しくなる盗人根性、いくら陳腐だと腐されようが「男・女・男」「女・男・女」の類型が奏でる定型の三重奏に耳を傾け、私は幸せ。
ただし、受け付けない三角関係、ひとつあります。天智と天武と額田王の、それ。
40代の大海人皇子と30代の額田王、1300年前当時、自分の棺桶の素材を阿蘇凝灰岩か高野槙か、考え始める世代。田辺聖子さん風にいえば「オジンとオバン」のふたりです。
いくら高名でも「あかねさす」の相聞歌、そんな海千山千の男女がさらす酒臭い宴会芸なんか、ほんま嫌い。
しかし、焼け木杭に火が点いたような猿芝居を元夫婦にさせ、自分は高みの見物の天智天皇こそ、いちばん癖が強い。
「香具山は畝火ををしと耳成と」だなんて、こんな嫌味を正気で詠う男なのですから。
何もかも我が掌中、おしなべて鳥瞰する男だと私は思っています、葛城中大兄皇子、天智天皇のことは。
天智天皇、だいたいこの男に対抗できる女はただひとり、夫の葬儀に挽歌を手向けるためだけに存在したような妻、倭大后(やまとのおおきさき)、倭姫王(やまとひめのおおきみ)に尽きるでしょう。
なっがいマクラとなりました。
奈良大学通信教育部の言語伝承論について。
課題テキスト、上野誠先生著の『万葉挽歌のこころ 夢と死の考古学』、その着眼点のあまりのnicheさに「これってマザーグースの『Who Killed Cock Robin?』かも」と感嘆の感想を述べざるを得ず。
Who killed Cock Robin?
I, said the Sparrow,
With my bow and arrow,
I killed Cock Robin.Who saw him die?
I, said the Fly,
With my little eye,
I saw him die.Who caught his blood?
I, said the Fish,
With my little dish,
I caught his blood.Who’ll make his shroud?
I, said the Beetle,
With my little needle,
I’ll make the shroud.Who’ll dig his grave?
I, said the Owl,
With my pick and shovel,
I’ll dig his grave.Who’ll be the parson?
I, said the Rook,
With my little book,
I’ll be the parson.Who’ll be the clerk?
I, said the Lark,
If it’s not in the dark,
I’ll be the clerk.Who’ll carry the link?
I, said the Linnet,
I’ll fetch it in a minute,
I’ll carry the link.Who’ll be the chief mourner?
I, said the Dove,
I mourn for my love,
I’ll be chidf mourner.Who’ll carry the coffin?
I, said the Kite,
If it’s not through the night,
I’ll carry the coffin.Who’ll bear the pall?
We, said the Wren,
Both the cock and the hen,
We’ll bear the pall.Who’ll sing a psalm?
I, said tha Thrush,
As she sat on a bush,
I’ll sing a psalm.Who’ll toll the bell?
I, said the Bull,
Because I can pull,
So Cock Robin, farewell.All the birds of the air
Fell a-sighing and a-sobbing,
When they heard the bell toll
For poor Cock Robin.だれがこまどり ころしたの?
わたし とすずめがいいました
わたしのゆみやで
わたしがころしただれがこまどり しぬのをみたの?
わたし とはえがいいました
わたしがこのめで
しぬのをみただれがそのちを うけたのか?
わたし とさかながいいました
ちいさなおさらで
わたしがうけただれがきょうかたびらを つくるのさ?
わたし とかぶとむしがいいました
はりといととで
わたしがつくるだれがおはかを ほるだろう?
わたし とふくろうがいいました
すきとシャベルで
わたしがほろうだれがぼくしに なるのかね?
わたし とからすがいいました
せいしょをもってる
わたしがなろうだれがおつきを してくれる?
わたし とひばりがいいました
まっくらやみでなかったら
わたしがおつきに なりましょうだれがたいまつ もつのかな?
わたし とべにすずめがいいました
おやすいごようだ
わたしがもとうだれがおくやみ うけるのか?
わたし とはとがいいました
あいゆえふかい このなげき
わたしがおくやみ うけましょうだれがおかんを はこぶだろう?
わたし ととんびがいいました
もしもよみちでないのなら
わたしがおかんを はこびますだれがおおいを ささげもつ?
ぼくら といったはみぞさざい
ふうふふたりで
もちましょうだれがさんびか うたうのか?
わたし とつぐみがいいました
こえだのうえから いいました
わたしがさんびか うたいますだれがかねを つくのかね?
わたし とおうしがいいました
なぜならわたしは ちからもち
わたしがかねを ついてやるかわいそうな こまどりのため
なりわたるかねを きいたとき
そらのことりは いちわのこらず
ためいきついて すすりないたWho killed Cock Robin? Mother Goose
だれがこまどり ころしたの? 訳:谷川俊太郎
小磯良平の代表作『斉唱』に描かれる少女たち、実は全員同じ顔の同一人物なのです。戦争中に描かれたこの絵、みんなの心がひとつになったあかしのようで、個性を奪う戦争への異議も込められているのです。
歌を歌うということは、そこにいる人びととあい和することであると同時に、戦うことでもあるのだ。
万葉びとにとって、歌とは、戦うための道具だったのかもしれないのである。上野誠『万葉挽歌のこころ 夢と死の考古学』
上野先生の主観、私も激しく同意。
天智天皇の後宮の女たちが亡くなった主君への挽歌を捧げ合う、そんなもの、まさに字のごとく歌「合戦」に相違ない。
九つの歌を五人の女が歌い継ぐ、連歌のようにも思えたのですが、ぎこちない。後述しますが、それぞれ異なる場面で、異なる面子で歌われているので、ぎこちなく感じてあたりまえ。
そもそもが後宮という、ぎこちない関係性のなかで生きてきた女たちなので。
病に伏し、身罷り、葬られ、弔われ、そして会が解かれ散っていく、そこまでを女たちの歌で語る。
歌、それも女たちだけが歌う声が志賀の都の湖の水面をすべり、一代の英傑のたましいと共に、冥界へ昇っていく。
男たちはなぜ歌わないのか。
歌う女たちはその理由、虚々実々、探り合っているのかもしれません。
だれがおおきみ ころしたの?