
2025年5月5日、息子のたっての希望で斑鳩の古刹を自転車で巡ることに。昔からあるJR法隆寺駅前のレンタサイクルを利用させていただきました。自転車自体は古いものですが、メンテナンスはばっちりなので文句なし。何より、日中Freeで借りても600円です、安い安い。電動自転車は置いていないのですが、斑鳩の平地に電動なんか不要です。
で、先ず訪れようと思ったのは、藤ノ木古墳。いつも横を通ってばかり、きちんと訪れたことがなかったので。

『斑鳩に眠る二人の貴公子・藤ノ木古墳』
こんなふうに、二人の遺体が葬られていた、と。それぞれ美麗な金メッキ製の装飾品で飾り立てられていた、大柄なほうの人物は男性で間違いないようですが、小柄なほうの人物は男性と特定するに早計ではとの意見もあり。

とはいえ、「阿豆那比の罪」(あずなひのつみ)、つまり『日本書紀』に記されている同性愛者同士の合葬が原因で起こる災厄、そんな禁忌を彷彿と想像たくましくしてしまう、二人塚なのです、藤ノ木古墳。
私はまだ じゅうぶんに死んでいないから
月光に誘(いざな)われて 土盛(ども)りの外へ出てくる
死者どうしの媾合(まぐわい)で生まれるのは
血液と体温のない赤子だ と知っているから
真夜中の墓原で愛しあおう とは思わない
戸の隙間から しばらく覗いてみて
寝息を立てるあなたの脇に しのび入る
熟睡するあなたに跨(またが)り 精を絞りつくしたら
ふらふらと出て行く 私は胎(みごも)っている
だが何を? 孤児という死児を?
まっ黒な穴のような絶望を?
目覚めたあなたは 私のことなど知らない
私の落ちつくところは 何処にもない
墓の中は暗く湿って 居心地の悪いところ
私を じゅうぶんに殺してください高橋睦郎『永遠まで』「旅にて(4)」

法隆寺の門前の松並木。しかし斑鳩の古刹は今日は通り過ぎるだけ。どのお寺もすべて、赤ん坊のころから通って知っているので。

こんな古墳、奈良にはうざるくらいある。あの変哲もない円墳に、あれだけもの古代東アジアの文化を担う最高の宝が眠っていたのだから、手つかずの天皇陵、大王陵クラスの古墳ともなると、想像のはるか上を行くレベルの遺物を推量して当然。

ここには後で行くことに。

案内石碑の内容が素晴らしい。

藤ノ木古墳について必要なこと、端的かつ明瞭に解き明かしている。

奈良県の文化財や遺物を管理する、奈良文化財研究所や橿原考古学研究所の職員各位が京都大学出身者で占められているのは、学閥はさておき、最高の宝を管理するにはそれ相応の識者の手で、という、至って当たり前のこと。
要するに、賢い人は、無駄な文章を書かないのです。誰にでもわかる、素直な文章を書ける、それが賢い人なのです。

案内石碑、もうひとつ据えられて。

後で訪れた斑鳩文化財センターのダイジェストが、この案内石碑。

遺物の現物は、橿原考古学研究所に保管されています。

お、古墳入り口最寄りにも案内石碑が。

これら3点の案内石碑を見て読めば、斑鳩文化財センターに行かなくてもなんとかなることが、そこへ行ったときにわかりました。

とはいえ、斑鳩文化財センターに行ったほうが、実物大の複製品や石室に触れることができますが。

時間に余裕がなければ、これら案内石碑に見識を委ねればいいでしょう。

入り口から石室を覗けるそうですが、真っ暗、なんにも見えない。

スマホのカメラでフラッシュを焚いたら、なぜか石室入り口扉のガラスに映った姿が自撮りされ。怖いな、石室の被葬者から見つめ返されたようで。

藤ノ木古墳を後にして、再び法隆寺の門前を横切る。斜めから法隆寺の五重塔を観るのも良いなあ。さても、今日はなんだか空いてるね、法隆寺。

右手には夢殿と中宮寺。斑鳩の古刹で一番好きなのは、この土塀。土塀を伝って進むと、一足飛びに古代へ連れ戻されるから。

夢殿も空いているのは、法隆寺の百済観音と中宮寺の弥勒菩薩が奈良国立博物館へ出開帳されているからなのか。夢殿の救世観音は秘仏ゆえか斑鳩で留守居の番を担っておられるけれど。

春の晴天のもと、新緑の薫風に洗われながら、ほのぼのと美しい斑鳩の里を自転車ですーいすい漕ぎゆくと、見えてきたのは法輪寺の三重塔。

多くの寄進者各位、なかでも作家の幸田文氏と宮大工の西岡常一棟梁の信念で再建された、三重塔。
私の母の知人が、西岡棟梁と一緒に仕事をされていました。奈良県民にとって西岡棟梁は誇りであり、親しみ深い馴染みでもあるのです。

県道9号線を渡ると、見えてきたは法起寺の三重塔。今日は車では通れない畦道を自転車で走り、北から南へ向かって三重塔を眺めて写真に納め。

県道からいつも見えるのは、この西から東へ向かった眺め。慶雲3年、西暦706年に完成された、現存最古の三重塔です。しかし、1300年経たものとは思えない、この塔の瑞々しさ。

県道9号線を南下して、中宮寺跡の史跡公園へ。中宮寺はそもそも法隆寺に隣接しておらず、東へ450m離れたこの場所に建てられていました。

史跡を観ようと思ったものの、この日は公園一帯でイベントが催されていたため、遠くからの見物となり。

もっと南下して、調子丸古墳と駒塚古墳へ。手前の調子丸古墳、民家の合間、整備されていない野っぱらに、ぽつんと。その左向こうの、駒塚古墳のほうが整備されていました。
調子麿は百済の宰相の息子で、来日して聖徳太子に仕えたとされます。駒塚は、聖徳太子の愛馬の黒駒の墓とされ、黒駒は調子麿が世話をしていたと。
残念ながら、両古墳とも、聖徳太子の年代より古い時代の古墳です。だからか、扱いがぞんざいなのは。

さて、ここまで来たなら上宮遺跡公園まで行ってしまおう。ここは聖徳太子の飽波葦垣宮の伝承地です。

藤棚の下の休憩所では、散策を伴う歴史講義が開催されていました。

平城宮設営にも影響したとされる遺構が見つかった、と。

和を以て貴しと為す。この公園のレリーフの聖徳太子、すごく良い表情をしている、あの視線の冷静かつ鋭利なこと。

緑豊かな公園ではありましたが、池の水がほんっとうに汚い! ゴミ溜めになっていました。植栽ばかり手入れしたって、水回りの清掃を怠るくらいなら、最初から池なんか造らなければいいのに。
今日の斑鳩散策で、これが唯一の汚点でした。

時間が余ったので、また法隆寺まで道を戻って斑鳩文化財センターを目指していたところ、信号でご年配の男性に「どこまで行かれますか?」と声をかけられたので、「斑鳩文化財センターへ」と答えると、ご丁寧に道を教えていただきました。で、斑鳩文化財センターへ着くと、その男性がニコニコ顔で私たちの後ろに自転車で辿り着かれ、「私、ここのものです」とのこと。
すごい御縁! 私たちにお声がけくださった方は、斑鳩文化財センターのボランティアガイドの方だったのです。

アプローチに設置された、藤ノ木古墳の石棺の複製品。真っ赤っ赤に朱塗りされていたのです、石棺。

なんか異様な構図。朱の色は無論、家形石棺の形状も、特別なものとしか思えなく。

ここにも、ご丁寧に案内石碑が。この朱塗りの石棺、二人塚と。
なんというか、なまなましい。
そう、なまなましいのです、この藤ノ木古墳の被葬者ふたりは。
――死に切っていない、死に切れない、そんなふたりのような――

複製品がずらりと陳列されていて。なかでも、私が最も惹かれたのは、金銅製冠。シルクロードのど真ん中のアフガニスタンのティリヤ・テペ遺跡から出土した金冠の意匠が、シルクロードの東の果ての斑鳩の藤ノ木古墳まで伝わった、汎世界的レベルの遺宝。

鳥がトーテムとして使われたのは、魂が飛び立つものとして扱われていたからか。

橿原考古学研究所には、元通りの金メッキの輝きの複製品が常設されています。銅は酸化すると緑青として青く錆びてしまいます。古代の臨場感、黄金で表現したほうがいいと思うのは私だけではないような。
金の復活、それはまさに昔を今によみがえらせる、蘇生法。

午後2時、お腹空いた。JR法隆寺駅の最寄り、レストラン若竹へ。ここは大人気の洋食屋さん、私は10代のころ以来の訪れ、なつかしい!
初見の主人も息子も大満足の量と味。私は人気メニュのエビフライ定食を注文するも半分も食べられず、残りは主人と息子に食べてもらうことに。
先ず、食べ盛りの世代向けの量であること、次に、私の食が最近とみに細くなっていること、両方が合わさったため。
ああ、10代のころはぺろりと完食できたのに。
斑鳩、ここでも思い知らされるとは、私も免れない、生き切るために、生きているのだな、と。