2024年9月19日、頭をむんずと鷲掴みされて無理くり引っ立てられていくような心地で、大和一之宮の大神神社へ。
近鉄奈良駅からJR奈良駅まで徒歩15分、そこから桜井線で30分、各駅に停車するローカル電車にゴトゴト揺られ、無人駅の三輪駅に到着。
やたらと奈良の街を賑わわせている外国人観光客も、さすがに平日の三輪さんまでは誰も足を運んではいませんでした。
とんでもない残暑、しかし三輪さんの神域は風も吹き、涼を感じ取れました。
お目当ては、この三輪さん謹製の子持勾玉腕輪守。身に帯びる石を求めてやまない時期が、私には周期的に訪れるのです。
ただ、いくら私が馬鹿でも、氏素性の確かでない者から得体の知れない石を買わされるほどではないので、由緒正しい寺社仏閣で謹製され、常識に照合された値段で衆人へ下される、ごくごく身近な御守だけを、子どものころから護身として帯同してきたに過ぎません。
海の珠、山の玉、珠玉はそれを身に纏う者の分身と化す、つまり身代わりとなってくれる、それが本来の御守というものなのでしょう。
三輪さんの腕輪守は、天然石を材料とした3,000円のものと、プラスチック製の1,000円のものと、2種用意されています。
いずれも、たいへん良心的な値付けです。いや、三輪さんの御札や授与品はすべて、そもそも庶民に寄り添った値付けをされています。
これぞ神代から続くお宮さんのノブレス・オブリージュ。
当初、透明な水晶だけで作られた腕輪守にしようと思ったのですが、実物を目にすると、このローズクォーツと白瑪瑙で彩られた優しく穏やかな印象の腕輪守に惹かれ、いただくことになりました。
三輪さんの腕輪守は郵送でもいただくことができるのですが、やはり現地にお参りして実物を確認したほうがいいと思いました。そのときの自分の深層心理で求めているものが、判然とするからです。
お斎は、大神神社参道の万直し本店。三輪素麺と握りの定食。どれも素材がいい、だから味も間違いがない。
余計なことが何もされていなくて、おいしいなあ。身に沁みる。
三輪さんには物心つかないころから数え切れないほどお参りに来ていたのですが、まさかの今日が一人でお参りした初めての日。
愕然としました。
それに気づいた拝殿の目の前、気が抜けてしまいました。
三輪さん、だから私を呼んだのか、と。
どうしてこの白とピンクの彩りに惹かれたのか、それは、大神神社摂社の奈良市の率川神社で催される三枝祭(さいくさのまつり・ゆりまつり)で用いられる笹百合の花の色だと、先日率川神社さんからいただいた美しい御守を見て、謎が氷解。
狭井川のほとり、三輪山に咲きこぼれる笹百合、私の無意識下にも既に薫り立っていたのだと。
私は、私の御魂(みたま)を受け取りにいったのかもしれない、三輪さんへ。いいかげん早く、取り戻しに来い、と。
寂しい時、この鈴を振ってみると、推古の音がする。そして、子供の頃に見た法隆寺のあたりの景色がよみがえって来る。焼ける前の壁画の至福にあふれた情景も、丈高い百済観音の唇の紅も、大空に浮かぶ五重塔のかなたには、聖徳太子の幻影まで見えかくれする。
「遠くも来つるものかな」と、その時わが身をふりかえって思うのだがその思いには、過去をなつかしむというような甘ずっぱい感傷はない。
何といったらいいのか、私たちの歴史は、たとえ無意識にせよ、私たちと共にある、私たちみんなの中に生きている、そう自覚することが生きていることの意味なんだぞと、推古の鈴は告げるようである。白洲正子『夕顔』「法隆寺鍍金鈴」