飛鳥へ

自由、私は自由! ―額田王 誰のものにもならない女―

平安時代の婚姻制度についてレポートを書いていて思ったのは、男も女も生家の実力如何、ということ。

『源氏物語』も『蜻蛉日記』も「女が生きるためには男について考えないといけない」という、もしかしたら今もなお連綿と続く「ああ、めんどくさ」な実情なのかもしれません。

『天の果て地の限り』 Ⓒ大和和紀

その「めんどくさ」な実情から解放されている女もいました。
飛鳥時代の女ですが、額田王です。
上記、大和和紀さんの漫画『天の果て地の限り』の一幕。私が人生お初で知った、額田王です。
言わずもがな額田王は、古代日本のスーパーヒロインです。
数多の著作物で扱われていますが、私にとっての額田王はこの瑞々しい作品で描かれた「誰のものにもならない女」、それに尽きるのです。
のちの天武天皇、大海人皇子のモノローグがすばらしい。

心はだれのものでもない。そのために命を賭するつもりか。
おまえはこうして近くにありながら、手にふれることのできぬ心を持っている。
この世のだれに対しても。
この世のだれに対しても、そうなのだ。
その誇りをこそ、好きになった。

額田王は実際、何者かよくわかりません。
天智と天武、日本史に輝く二巨頭の天皇の傍近くに在れと乞われた女なのですが。
私は、額田王は、舒明天皇の娘だと思っています。
それでもって、姉と見なされる鏡王女と同一人物だとも、思っています。
妄想はさておき。

歌は、神に捧げるもの。
歌詠みは、神に仕えるもの。
これが許された女は、すでに選ばれた女。
だから、誰のものにもならない、誰のものでもない。

額田王は、自身が有力者だったのでしょう。
自分で自分を養えた、これは強い。
平安時代に移っても、八条院(鳥羽天皇第三皇女暲子内親王)を筆頭に、荘園管理などで私服を肥やせた女は、強い強い。

つまり、男女問わず、なぜ「色恋の相手のことを考えて」生きていかなければならないのか。
それは、色恋とは結婚の入り口であり、結婚とは生活であり、生活とは生きることであり、生きるとは心証晒せば経済に裏打ちされたものだから。
経済の輪からは、誰も逃れられません。

平安時代、日本で女が歴史の表舞台に立てたのは、ここまで。
鎌倉時代の尼将軍、北条政子、あれは男性原理を生きた女です。
女の時代、さようなら。

ⒸO-DAN

おお、私はなんと幸せなことか。
花壇を飾るあれやこれやの花々の一つでもなく、卑しい手に摘み取られる気遣いもない。
そして、くだらぬおしゃべりに煩わされる心配もない。
さまざまなほかの植物、私の姉妹たちとは違って、自然は私を小川から遠く離れた場所で育つようにしてくれた。
私は耕された場所と文明のある土地を好まない。
私は野生のもの、人の世から遥かに離れた荒野と孤独の中に私はとどまる。
なぜなら、私は群衆に混じるのが嫌いだから。
(中略)

自由、私は自由!  

『千夜一夜物語』ラヴェンダーの歌

まほろば倭の飛鳥時代、三輪山のふもとを逍遥する巫女、その狷介孤高な姿を偲んで、私が自由気ままに想うこと、です。