3月31日、飛鳥資料館へ。ここは山田寺跡の近くにあります。
私、この施設のなかへ入るのは初めて。
道をはさんで向かい側、葛専門店の天極堂。こちらには何度か行ったことはあるのですが。
明日香村に点在する史跡のレプリカが、ここに集結しているのです。
ここへ来れば飛鳥の考古資料、美術資料が気軽に一望できるので、なんというか、けっこうお値打ち。
このとおり、亀石にも、レプリカなので堂々と凭れられます。
展示、いろいろすばらしかったのですが、意外にもいちばん目を奪われたのが、入り口前の、このロッカー。
息子とふたり、職員さんに勧められ、飛鳥資料館オリジナルの塗り絵を勤しむと、山田寺出土の銅板五尊像の実物大のカードをいただけました。
これは、じわじわと歓喜がこみ上げました。
7世紀後半の中国製の銅板。当初は金メッキで光り輝いていたそうです。
きっと、山田寺の建立者、蘇我倉山田石川麻呂か、彼に近しい人物の持仏だったのでしょう。
奈良大学通信教育部の文化財学講読Ⅱのスクーリング講義で、講師の深澤先生が「古代の高貴な人の自死の手段は、縊死といって布で自分の首を絞める。自分で自分の首なんか絞められない、そう思っていたけど、専門家に訊ねるとそれは存外、可能なんだよね」と仰っていました。
私も知人の医師から「最も確実な自殺方法は、hanging(首吊り)」と聞いたことがあり、古代人、特に高貴な人は皆、知っていたんだと思いました、確実に自死できる手段を。
つまりそれだけ王族や貴族は、常に死と背中合わせであり、また、不様に死に損えない身上にあったのだと。
石川麻呂は、あのあたりで亡くなったんだ、自分で自分の首を絞めて。
そう山田寺跡を眺めると、彼の娘の遠智郎女や彼の孫の持統天皇の忸怩たる思いが、透けて見えてくるようでした。
ある論文に、斉明天皇が「皇孫(すめみま)」と認めたのは大田皇女と建皇子のふたりだけとあり、鸕野讃良皇女のちの持統天皇はそれに含まれていないことを知りました。
父と母を同じくするはずの三人が、何この区別、この気持ち悪さ。そう私は怪訝に思いました。
同時に、持統天皇がみずからの蘇我氏の血を大切にした理由も、形を成して浮かび上がってくるようでした。
持統天皇が実益の統治者であったのは、斉明天皇とはなんとも対照的だとは、以前から私は思っていました。
夢など見ている有余もなかったのでしょう、持統天皇は、幼いころから。
いえ、もともと、そういう気質の人だったのかも知れません。夢など欲しくもない、と。
鸕野讃良皇女のちの持統天皇の目には、荒廃した山田寺、その金堂の前、自決した祖父の無念の籠る甃(いしだたみ)、それだけが見えていたにすぎません。
ただ、そこに感傷ひとつ、転がっていたわけではないでしょう。
「当時は謀反の疑いをかけられたらもう、終わりだった。たとえ、無実でも。権力のそば近くに在る、いくばくかの権力を持つ、それがどれほど危険なことか、石川麻呂の最期が如実に顕わしている」と、深澤先生が仰っていました。
孫は祖父の最期から、みずからに選択を迫ったのでしょう。
咬まれるか。
咬みつくか。
祖父の無念を、感傷など人並みの諦念で済まさない。
それが孫の選んだ道でした。
亀石のレプリカに乗る息子。彼の向いているあたり、山田寺跡です。
私は持統天皇が好きか嫌いか、よくわからない、です。
尋常ではない境遇に生まれ育った古代日本の専制君主を、好悪の感情で分別するのは、何か間違っている気がするのです。
ただし、敗者へ礼を尽くす持統天皇には、私も粛然とさせられます。
二上山に大津皇子を掲げた、これは私にはrespectにしか思えないのです。
誰が何と言おうとも。
持統天皇自身、敗者の末裔として幼少期を過ごした、敗者だったのですから。
さても、てのひらの浄土。
敗者の魂を安寧へと、みちびきたまえ。