弘田三枝子さん歌う『人形の家』が私は大好きなのですが、これがまさか第二次世界大戦後の満州と日本の関係性を隠喩とした歌とは、作詞を手掛けられたなかにし礼さんから語られるまで、想像も及びませんでした。
顔もみたくないほど あなたに嫌われるなんて
とても信じられない 愛が消えたいまも
ほこりにまみれた人形みたい
愛されて捨てられて 忘れられた部屋のかたすみ
私はあなたに命をあずけたあれはかりそめの恋 心のたわむれだなんて
なぜか思いたくない 胸が痛みすぎて
ほこりにまみれた人形みたい
待ちわびて待ちわびて 泣きぬれる部屋のかたすみ
私はあなたに命をあずけた私はあなたに命をあずけた
弘田三枝子『人形の家』
作詞:なかにし礼 作曲:川口真
家もしくは部屋は、満州もしくは収容所。人形は、棄民された日本人。そして、あなたは、日本。
それを知って、心臓をえぐられるようでした。
棄民など、こんなむごたらしい言葉が存在する事実にも、後頭部を殴られるくらいショックでした。
私はあなたに命をあずけた。
私は日本に命をあずけた。
98歳で亡くなった私の祖母は大正2年すなわち西暦1913年、日本が中華民国を承認した年生まれ。
翌1914年、第一次世界大戦勃発。
戦争の時代を生きた祖母は、戦時中の暮らしをほぼ口にせず。
ただ、「大陸からの引揚者が嘗めさせられた苦労に比べたら、自分らなんぞ、数にも入れられへん」と、こぼすだけでした。
人は、どれだけの過去を歴史として、否、傷として、その総身に負っているのか。
どの人も侮ってはいけない、どの人も。
そう肝に銘じるしか私にはできませんでした。
私の知人、戦時中に日本へ移った台湾人医師は、学校では全教科が満点の成績でしたが、全体評価の順位は5位や6位、つまり1位ではなかったのです。
「どうしてですか?」と私が訊ねると、「瓊花くん、戦争に負けるって、そういうことや。儂ら台湾人は後回し。日本人が、一番なんや」と、台湾人医師は鷹揚に仰いました。
自分が介入できない問題で、自分を枉げて評価される。
むごい。
私は、思わず、双の目から涙を噴きこぼしてしまいました。
「なんで君が泣くんや瓊花くん。君は、ええ子や、儂の同胞や。儂はあのころ、日本人でもあったんやから」と、台湾人医師は達観された笑顔で、私の両手を強く握ってくださいました。
つらいときには、いっそつらさに旋毛まで浸かるべき。
私は中央大学学生歌『惜別の歌』をYouTubeで聴きます。
一 遠き別れに耐えかねて
この高楼に登るかな
悲しむなかれわが友よ
旅の衣をとゝのえよ二 別れといえば昔より
この人の世の常なるを
流るゝ水をながむれば
夢はずかしき涙かな三 君がさやけき目のいろも
君くれないのくちびるも
君がみどりの黒髪も
またいつか見んこの別れ四 君の行くべきやまかわは
落つる涙に見えわかず
袖のしぐれの冬の日に
君に贈らん花もがな中央大学学生歌『惜別の歌』
作詞:島崎藤村 作曲:藤江英輔
島崎藤村作の歌詞の意味は、私などが述べるまでもないでしょう。
行かないでほしい。
ここにいてほしい。
そう心を投じることも許されない、そんな時代だったのです。
白い曼殊沙華、自宅最寄の叢に咲いていて、本当に嬉しかった。
病的だなんだと言われようが、私は花は総じて白い花が好きです。
餞の花もなかった、忸怩たる思いで用意できなかった、あの時代の人たちすべてへ、捧げます。