ならだより

2024.3.3 大嫌いで、大好きな。 ―法華寺 古代ひな人形展―

3月3日、奈良大学図書館へ卒論の文献資料の図書を借りに行きました。
スクーリングのまっただなか、急いで図書館へ。
この日はちょうど学友会の先輩方が相談会を開かれていて、知己のお姉さまに寄っていけと乞われましたが、ダンナとセガレを駐車場で待たせていますと後ろ髪を引かれつつもお断りし、図書館の扉をくぐりました。

奈良大学図書館って、ほんとうにすごい。欲しい資料がほぼ揃う。
お目当ての本以外にも興味を惹かれる蔵書が満載。でも、今は寄り道する暇はない。前もって吟味していた資料だけを借りました。

不意に息子が「お寺に行きたい」と希望したものだから、最寄りの法華寺を目指しました。

光明皇后が創建された由緒正しいお寺。総国分寺の東大寺に対しての、総国分尼寺が法華寺。
そもそもここら一帯は藤原不比等の邸宅で、のちに光明皇后の皇后宮となったのです。
法華寺は、光明皇后の住み慣れたお住まいだったということ。

「おら、このお寺、初めて?」
ちがいます、おたくが覚えていないだけ。

受付のおじさんに葉から実がなる枝を見せられ、「これ何かわかります?」と問われました。
「菩提樹の実ですね。東大寺で見たことあります」と答えますと、「すごい! 99パーセントの方はおわかりになられません」と感心されました。
宝物殿の慈光殿の前に菩提樹の大木があると教わりました。

先ず本堂の御本尊へ。本尊の十一面観音菩薩は今は拝観時期ではなく、御前立へごあいさつ。
平安京遷都後、荒廃した法華寺。本堂は、桃山時代に淀殿が再建したものです。
淀殿、なんとなく、光明皇后に似た御方です。誰よりも華やかなぶん、誰よりも負ったカタストロフ、宿命的な。

3月1日から2週間、法華寺の東書院で、古代ひな人形展が催されています。
ちょうど3月3日のひな祭りの日、幸運でした。
皇室や公家ゆかりの古代ひな人形、幼くして仏道に入られたお姫様にお持たせしたもの。
そう思うと、少し切なくなりました。

参拝者? 3歳くらいと1歳くらいの姉妹がよちよち畳の上を歩いている姿に、ほのぼのしました。
女の子は男の子に比べ、骨が薄く、やはり華奢です。問答無用で守ってあげたくなる、かわいさです。
お花とお人形、女の子のお祭りですね、ひな祭り。

私がいちばん良いなと思ったお雛様は、光明皇后像の木目込み人形でした。

慈光殿の前の菩提樹の大木。これはお釈迦様が悟りを開かれたインド菩提樹とは種類が違います。日本ではインド菩提樹は育たないのです。

「パパとママとおらの3人ぶんだけ、実を拾うね。残さないと、後から来た人のぶん」と息子。

我が子ながら、尊敬しましたわ。

重要有形民俗文化財、浴室(からふろ)。

法華寺の心臓部。

 藤原四兄弟(医療の歴史47)の父で栄華を誇った藤原氏の実質的な開祖、藤原不比等は長女である宮子を文武天皇の夫人に入れ生まれた皇子(後の聖武天皇:医療の歴史48)の即位を計りました。さらに県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)との間にできた娘の光明子も聖武天皇の夫人として、天皇家と藤原氏の密接な結びつきを築いていきました。光明子(光明皇后)は仏教を深く信仰していた母の影響もあり、仏教へ帰依して厚い信仰心を持っていたそうです。このことが疫病流行に対して国分寺や大仏建立に至った聖武天皇に大きく影響したと考えられます。

 光明皇后の施療は「あまねく人々を救えば、未来永劫、疫病の苦しみから逃れられる」という仏典をよりどころにしています。医療の歴史(40)で、聖徳太子が四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四院を建てたという伝説は定かではないことをご紹介しましたが、施薬院や悲田院は光明皇后によって本格的なものになっていったようです。この二院は723年、興福寺に置かれました。興福寺はもともと藤原鎌足の病気治癒を祈って京都の山科に建てられ、山階寺として藤原氏の氏寺でしたが、藤原不比等がこれを藤原京に移し、さらに都が平城京に戻ったとき興福寺として現在ある奈良の春日野に移されたものです。

 光明皇后が立后した翌年、興福寺に施薬院と悲田院が設けられたのです。施薬院は皇后宮職の管理下で役人が置かれ、医師・鍼師らの医療に必要な薬草を諸国から買い集めていました。医疾令では、医療職が病人のいる家を巡り治療することが定められていましたが、典薬寮の医師は施薬院から入手した薬をもって都中を廻り、病家に薬を与えていたそうです。さらに自宅では保養できない人、さらに孤児たちを悲田院に収容していました。

 また光明皇后でよく知られる話は、浴室での施療です。奈良市の平城京跡に隣接して、光明皇后が病人の治療のために建てたとされる法華寺がありますが、このなかに浴室が残されています。これは古くから「からふろ」と呼ばれており、サウナ風呂のような蒸し風呂だったのでしょう。光明皇后は「からふろ」で、千人の民の汚れを拭うという願を立てました。ところが、千人目の人は全身の皮膚から膿を出すハンセン病者で、皇后に膿を口で吸い出してくれるよう求めたため皇后が病人の膿を口で吸い出すと、たちまち病人は光り輝く如来の姿に変わったという逸話が残されています。

末廣医院「医療の歴史(49) 光明皇后と医療」

私は、光明皇后が999人の民の垢をぬぐい、1000人めのハンセン氏病患者の膿を口で吸ったという逸話を、プロパガンダと捉え、信じていませんでした。しかし、二十歳くらいのとき、初めてまともに法華寺を訪れたとき、啓示のように思いついたのです。あのとき、光明皇后は実践を伴った、と。

これしきのこと、なにほどでもない。

光明皇后はあたりまえのこととして、千人の民に尽くした、と。

現地に来ないと見えない、わからない感覚があるのです。

何がすごいって、ここは江戸時代に実際に、庶民のサウナとして使用されていたということ。

茅葺屋根の古民家、光月亭。ここでは無料のお茶をいただけます。

雲ひとつない晴天でしたが、寒い日だったので、あたたかいほうじ茶が身に沁みました。

大嫌いで、大好きな。
光明皇后、私はあなたについて卒業論文を書きます、見ていてくださいね。

ひな祭りのお菓子は、お雛様を模した苺のよそゆき桜餅。ちゃんと牛蒡の笏をお持ち。

これが、お葉つき菩提樹。光明皇后からのお持たせです。