2022年2月27日、奈良テレビ『加藤雅也の角角鹿鹿』で紹介された桜井市の鶏焼肉屋さんへ行く前に、等彌(トミ)神社へお参り。
お社の前は何度も通っていましたが、きちんと参拝するのは初めて。
霊峰鳥見山の頂上あたり、神武天皇が最初の大嘗祭を行った地。
ここ磐余(イワレ)の地は、神武天皇東征の最後の激戦地だったと、私は勝手に思っています。
神武天皇の名は、イワレヒコです。
勝ち得た地を名乗ったのでしょうか、古代ローマの将軍のように。
鳥居の門構えからは想像できないほど、広くて深い境内です。
左手、本社の上津尾社。右手、随社の下津尾社。本社の祭神は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)とも。随社の祭神の一柱は、神武天皇。
私の勝手ですが、饒速日命は、神武天皇最大の敵、鳥見(トミ)の長髄彦(ナガスネヒコ)の伏せ名だと思います。
本社の道を辿りました。
なんだろう、あっちのほうが鬱蒼としていますが、奈良の佐保の狭岡神社を彷彿。
狭岡神社は、サホヒコとサホヒメの叛乱の舞台。あれ、おかしいな、ここは神武天皇の戦勝を顕彰した地のはず。
なんで敗者の鎮魂地とダブるのか。
ああ、ここで、ヤマトの王、長髄彦が討たれたからか。
そう、長髄彦の、長い脚の男という漢字の当て字は蔑称。
ヤマトの中央を統べる王、中洲根彦(ナカス・ネヒコ)が真の姿。
本殿では、初宮が。
かわいい赤ちゃん、元気に育って幸せに。
随社で、改めてお参り。平和しか祈れませんでした。
おこがましいを承知で言えば、神武天皇もそう願われたのでは。
後世、敗者はこてんぱんに扱き下ろされましたが、この顕彰地の社は敗者の名前を冠しているのです。
ここは、トミヒコの杜だと。
等彌神社から桜井吉野線の道を挟み、桜井市立図書館が見えます。古代史関連の蔵書が豊富で、保田與重郎蒐集書物の献本も。
宇宙人めいた八咫烏の土偶が発掘された等彌神社は、パワースポットだそう。相変わらず私はなんにも感じませんが。
八咫烏からは、これでもかと『日本書紀』で勝ち戦の正統性を金鵄で以て書き連ねたことから、反ってヤマトの首長トミヒコの偉大さを私なんかは思わずにいられないのです。
金鵄とは、光り輝く鳥とは、翔び立ち去っていった王、そのものでは、と。
そこまでしても、どうしても欲しかったのだと、ヤマトの光り輝く金の鳥こそが、と。
「ママは雅也さんの言いなりだね」と、息子に揶揄られても仕方ない。正直者の加藤雅也さんがおいしいと言われるお店、かなり信用できるので。
とり焼肉『タケルのタ』桜井店。ランチは1,000円でおなかいっぱい!自家製みそだれがおいしい! 行って大正解のお店でした。
人気店、予約のほうがいいかも。
「おら、初めて焼肉屋さんに連れて行ってもらえた」と、息子しみじみ。
「鶏肉以外の焼肉は、パパと行ってくだされ」と私。
「ママ、神戸牛とか近江牛とか、たっかい牛肉は食べるくせに」と、主人ぶつぶつ。
大宇陀温泉あきのの湯に行って、いつも通り国道169号線を北上、遠く三輪山、近くに箸墓。
もう弥生目前、春になれば山の辺の道を歩きに行きますか。
語部の物語に現れる神名・人名は、眞の名を傅へる事が少い。多くはその地の主(ヌシ)或は有力者なるが為に、地名に直に、性別を表す語尾をつける事が最多く、其れでなければ、讃へ名或は字――又は醜名(シコナ)をも籠めて――を以て示したものである。眞の名は、人格の一部であるが為に、此を露に示す事は避けねば、その人に附隨した神聖味の失はれるのである。殊に日本の古代信仰に特有な事実から説明を下すならば、人は替つても、名は常に一定した聖職の称号で一貫した。その位置を継ぐ人は交替しても、同じ名によってその位置は続くのだ。だから、個性的な名の出来る必要は、社會的にはなかった。事実はあったとしても、その人の成長と共に、職名に没入する訣だ。即、童名が却って特殊であつたことになる。殊に、語部に傅へられ、記録を持つに到った叙事詩中の人名は、皆外側から輿へた名であり、殊にその人の生存時とは、時代の間隔を思はせるのばかりだから、旁、諺或は言ひ習しの様なものに過ぎない。
譬へば、この項に現れて来る登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)の如きも、古事記には登美毘古(トミヒコ)、日本紀には長髄彦(ナガスネヒコ)を以て傅へてゐる。又聖職を意味する――永久に唯一つを以て通した――称号は、譬へば又、長髄彦の奉仕を受けた、饒速日(ニギハヤヒノ)命の名の如きである。一方には、その子可美眞手(ウマシマデノ)命として傅へてゐるのに、他方には、尚饒速日命で傅へてゐる様なのが其だ。長髄彦の名を考へると、其妹三炊屋媛(ミカシヤヒメ)なる女性の、亦の名長髄媛、亦の名鳥見屋(トミヤ)媛とあるのは、男女の酋長に同じ語根を通用する習慣を逐おうて称へたものらしい。髄の長い事から出たのは勿論だが、其と共に、蠻人の渾名として用ゐられた七束脛(ナナツカハギ)・八束脛(ヤツカハギ)又は土蜘蛛の如く、山野を走る速さを、身体的特長に聯想して言ふのと同じ考へである。其と共に、長脚が一種の奴隷を意味する後の習慣を思ひ合せれば、この名は、一種の侮蔑を含んだものだった事が考へられる。一方、鳥見彦(トミヒコ)は、鳥見屋媛と對照をなしてゐる處から見て、登美の地の男酋・女酋であったを示すに相違ない。その女酋にして、最高巫女なる鳥見屋媛が、天の磐船に乗って天降った饒速日命の妻(メ)となって、御子を生んだと言ふのは、神・巫女・酋長の三對立の闘係を示してゐるので、度々述べて来た男女酋長の其の意義を、明らかに示してゐる。其と共に、饒速日命は、実は、大倭の舊地を領する威力の源なる神、即、威霊(マナ)を意味してゐたのである。
饒速日命は、同じく天神の子として、天孫と同様に天羽々矢(アメノハバヤ)・歩靱(カチユギ)の天表(アマツシルシ)を示し合はれた。此に関しては、同種族の分離して、別に住むべき地を求め行く別れの際に、とり換す聖器の物語として、類型の多いものだが、今は省く。饒速日命は大倭を司る筈の威霊(マナ)の神格化したものであるから、此がその身に入り来れば、大倭を得、此が去れば、大和を失ふ訣だ。饒速日命、天皇に隨はれた為、長隨彦は力を失って滅びたのである。そして此神を祀って、代々の主上の御身に、その霊を鎮魂することを司るのが、霊部(モノノベ)の職であった。神と神主との間に、血族関係を考へる時代になって、物部氏は饒速日命の後と称する様になったのだ。石上(イソノカミ)の鎮魂法(タマフリ)の起原は、此處にある訣だ。
登美の地は、後世大和に於いて、二カ所を考へてゐる。即、神武大倭入りの、二つの道の口に当る處である。一つは、宇陀・磯城を経て大和平原に出る口である。即、此まで述べて末た順路に当つてゐる。謂はば多武峯の外山とも言ふべき地の鳥見(トミ)であり、今一つは、先に入り敢へずして、軍を旋かえらされた日下坂の彼方大和側に当る地の、富(トミ)――富雄――である。この二箇處が現れたのは、思ふに語部の物語に對する信仰の為であった。登美毘古が防いだと言ふ地点を、直に登美毘古の領有地と解して、古くから、其地名と考へる事になつた、と思はれる。大倭入りの順序から見れば、東から西へ、宇陀・磯城・登美と行き通って、平野を望む形になつてゐるのだ。事実に於いて、天皇の通られた経路と、傅承の上の考への型とは、極めて微妙に一致したのである。
古代から近世に至るまで、神人の運動には、不思議な一つの法則があつた。ある平原に入らうとするものは、必づその平野の後に控へた山の背後の水を遡つて、川上から山を横ぎり、彼山地に入つて、其處に屯したものだ。さうして時あって、里に臨む外山まで次第に下る形を採つてゐる。此は、武家時代に通有な山村の住み方であった。かうした方法が亦、この昔物語にさへ現れてゐるのは不思議と言ふより、寧、人生の久しさに、思ひ到らずに居られぬ訣である。
折口信夫『大倭宮廷の剏業期』「鳥見彦・長髄彦」
出典:『生駒の神話』http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/