2021年3月7日、息子の模擬試験の送迎のため、会場が設定された奈良市街へ。
息子、初めての模試なので緊張気味。最初だから気楽にね、と送り出し。
息子を迎えに行くまで2時間以上も空き時間あり、佐保川を東へ沿って、東大寺まで散歩することに。
中御門跡から東大寺幼稚園を通過、奈良親子レスパイトハウスの前の大仏池、鹿の群れ。
大きさも数もピカイチの宿り木。欧米ではクリスマスに宿り木のしたに立っている人にはキスしてもいいという風習があります。
皆々、お気をつけあそばせ、です。
指図堂と子安神社から大仏殿を眺め。まだ8時前なので、誰もいません。
大仏殿中門から南大門を眺め。これはもう、贅沢やわ、独り占め。
中門から大仏殿を眺め。大仏様、すみません、今日はお参りはここで。行き先がありまして。
おはよう。馬酔木はさすがに食べへんのね。馬酔木、毒あるもんね。
法華堂もしくは三月堂、見えてきた。
お水取り真っ最中の二月堂。ここら一帯、ほんのりと、お松明の燃えた匂いがします。
左手に良弁杉、右手に大仏殿。二月堂舞台から東大寺境内を眺める。
興成社、閼伽井屋、お水取りの裏方の童子さんたちが。
登廊は封鎖されています。紅梅と白梅が屋根から覗いて。
結界の注連縄。舞台は聖域となりにけり。
韃靼の燃えさし。火の残り香が、至る箇所から漂います。
二月堂の内陣、練行衆がお籠りされています。
それでも、今ここに、私とご本尊の十一面観音しかいない、そんな止観の境地。
私は、実は、韃靼はもう20年は直に観ていません。人混みが苦手なのが一番の理由で、夜中のお参りが苦手なのが次の理由。
私は日が暮れてから出歩くのが大嫌い。だから、日中、こうして、韃靼の燃えさしを訪ね歩くのです。
閼伽井屋の井戸へ、若狭から、若返り甦り生まれ変わりの変若水(おちみず)が送られる、それがお水取りです。
火でもって、命の水を迎える、それがお水取りなのです。
水の神として命を支える十一面観音。ペルシア古来の大地母神、アナーヒターが本地垂迹したような。
私のお水取りへの参加はいつもこう、ひとり静かに始まり、ひとり静かに終わるのです。
檜葉。お松明のおこぼれ。いただいて帰りました。無病息災と火災除けの護符なので、玄関と台所にお祀りします。
さて、お水取りのあの火祭り、お松明が派手やかになったのは江戸時代からで、それまでは夜通しの行を照らすほどの灯りだったと知った10代のとき、「まじか」と拍子抜けした記憶があります。
それまで私は、生まれたての、いちばん最初のお水取りが1300年ものあいだ、姿を変えずに継続していると思い込んでいたのです。
非国民ならぬ非奈良県民と石もて追われるのも覚悟で言えば、私は、いちばん最初の、良弁の弟子の実忠が始めた、うぶだしのお水取り、それだけが知りたいのです。
「瓊花さん、原理主義者だもんね」
brainの言いようも一部は当たっています。
9時、東大寺南大門をくぐり、息子の試験が終わるまで、次はどこで待とうか、考え考え。
県庁前、通り過ぎてばかりの奈良公園バスターミナルへ。
うーん、県の威信をかけた箱物、朝9時とはいえ、ぜんぜん人が集まっていない。
建物2階、スターバックスコーヒー奈良公園バスターミナル店へ。コロナ禍の前は、よく諸外国の観光客が、このテラスを利用していました。
奈良一刀彫をモチーフにしたのでしょう、スタバのコップを背負った鹿オブジェ。
10時30分、息子を会場まで迎えに行って、その足で主人が待っている近鉄奈良駅まで。
途中、やすらぎの道沿い、以前から気になっていたパン屋さん、panc BAKERYさんへ。こちらはワインバーのAllez!!LeTrefleさんとテイクアウトメニュでコラボされています。
息子がチョコレートケーキを、私はスコーンと鯖サンドをチョイス。ご近所らしき奥様方も入れ替わり立ち替わり、ああこのパン屋さんは当たりだと推察。何しろ、ご年配の女性の舌は信用におけますので。
パンクベーカリーさんの向かいのカフェバルドーさんからは、気も狂わんばかりのおいしそうな香りが。香りの正体、濃厚なナポリタン!
「今度の模擬試験の後、必ず食べに行こうね」と息子。
「おう、合点承知」と私。
もう怖くなくなったのかな、五ツ木の模擬試験。
中学受験、受けるも受けないも息子の自由。しかし模擬試験は経験しておいて損はない。度胸がつくので。
今日の昼食、ならまち行きつけの「とよのあかり すずの音」さんに決めていたので。それまでになんと5㎞も歩いた私、おなかすいて夢中で食べたので、昼食の唐揚げの写真、撮れず。
先日、三田村邦彦さんの冠番組『おとな旅あるき旅』で紹介されたら、お客さんがたくさん来られて、こんな時期だから嬉しい限りです、とお店のお姉さん。
三田村さん、救世主ですね。
昼食後、春鹿さんへ。春の利き酒のラインナップです。
春の時期のグラス。実物はもっとオレンジ色っぽく、とてもかわいい桜色です。ああ、春ですね。
てくてく歩いて興福寺、南大門跡まで。般若の芝は、鹿の溜まり場。
おーい、おーい、こっち向いて。
向いてくれました。えらい別嬪さんたちです。
金堂と五重塔。薪能金春流発祥地の石碑、馬酔木に埋もれそう。
くんくん。少し汚れてるね。
お母さん綺麗綺麗してあげる。
南円堂が、鹿の親子を見守っているようです。
先のことは読めませんが、皆それぞれ春を迎えようと、やれる限りのことに努めている。
息子もちょっとばかり試練を超えて、ちょっとばかり大きくなったよう。
私も見習わないと。
若い人の存在は、私にとって水のよう。
死と再生を司る、春の変若水です。
止観とは
止 śamathaと観 vipaśyanāとの合成語。止とは精神を集中し、心が寂静となった状態、観とは対象をありのままに観察することを意味し、止を観の準備段階とする。この止と観とは持戒とともに仏教徒の重要な実践とされ、原始仏教経典をはじめ、諸経典に多く説かれている。また止と観とは互いに他を成立せしめて不離の関係にある。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』