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シルクロード追体験 ―天山山脈 天地 トルファン 敦煌 莫高窟 陽関 西安―

去る8月9日から3日間、奈良大学通信教育部の文化財修復学のスクーリングで同席させていただいた学友Tさんの中国シルクロードの旅行記のダイジェストを、拙ブログでの転載をご了承いただきました。
紹介文は、なるべくTさんから都度預かった、旅の臨場感に溢れるお言葉を引用させていただきます。

なお、Tさんおよびご同行のご友人のお顔がわかる写真は除いてあります(良いショットがたくさんあるので残念ではありますが)。
おふたりとも沙漠を目指されるだけあって、どことなく玄奘三蔵おっしょさまのように、真竹のごとくスリムかつスマートなお優しい穏やかな紳士のご様相ながら、才気鋭く勇壮な情熱を心に深く隠し持っておられると推察いたします。

そして、私同様、Tさんも文化財修復学70点でいらした……これはもう鉄板、鉄則なのかもしれません。

8月28日、前日に中国の新疆ウイグル自治区の首府ウルムチ入りされ、沙漠のオアシス、天山山脈の天池へ。神の山ハン・テングリをいただく天山山脈も西王母の天池も、世界遺産です。Tさん仰るように、ほんとうにスイスみたい、ヨーロッパの湖水地方のようです。

天山山脈のカザフ民族村。カザフ民族はウイグル民族とルーツは同じとされますが、Tさんと並んで写真の被写体となられたカザフ民族の女性、日本人にそっくりです。
ウイグル人より、カザフ人は日本人によく似ています。

8月30日、これをTさんから送られたLINE写真で見て、深夜に眠気が吹っ飛んだのです。

ウルムチ歴史資料館こと新疆ウイグル自治区博物館の白眉、楼蘭の美女、タクラマカン砂漠の幻の都市楼蘭の遺跡から発掘された3800年前のミイラ化したご遺体。

1980年に発掘されたときよりだいぶ黒くなったそうですが、乾燥しきった沙漠なので腐ってはいません。

楼蘭の美女の復顔。綺麗ですね。身長155cmの40歳の女性、コーカソイドです。トルコ系のルーツは中央アジアですが、遊牧民も意識に据えたいところです。

8月31日、トルファン。Tさん、高度800mのウルムチからマイナス100mのトルファンへ移動されました。気温40℃超え!

高昌故城の玄奘三蔵法師像。スリムでスマート、Tさんとご友人のようです。

高昌故城の西南大仏寺跡。玄奘三蔵おっしょさまも、ここで講義をされたのです。

懐かしのテレビドラマ『西遊記』、美しい夏目雅子さん演じる玄奘三蔵おっしょさま、わがまま・短気・怒りんぼ、性格だけはそっくりだと、小さいころの私、家人によく謗られました。

高昌故城

トルファン市から東へ45㎞。紀元前1世紀の漢代から13世紀にモンゴル軍により滅ぼされるまでの間、新疆における政治・経済・文化の中心地の一つでした。 大きさは東西1,600m、南北1,500mのほぼ正方形で、内部は宮城、内城、外城の三つの部分から構成され、現存する遺跡には日乾しレンガが使われています。仏塔跡には仏巌も残っており、かつて玄奘三蔵がインドへ仏典を求める旅の途中に、国王・麹文泰の勧めで説法をしたという伝説が偲ばれます。

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これ、火焔山ですよ! 

これまたテレビドラマ『西遊記』で、悟空ちゃんが羅刹女と牛魔王と戦った、あの!

火焔山

トルファン盆地の中部にあり、平均海抜は約500m、全長は約100km、幅は平均10km。最高峰は勝金口近くの851m。極度の乾燥地帯で、夏には地表から立ち上がる陽炎によって燃え上がる炎のように見えるので火焔山とよばれるようになりました。「西遊記」では孫悟空が鉄扇公主と戦う舞台とても有名です。 2006年7月31日午後3時ごろ火焔山の地表気温が70度近くまで達したとのニュースが中国国内紙に報じられたことがります。

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うわー、ベゼクリク千仏洞です! ドイツの盗人と悪名高いアルベルト・ル・コックが乱暴狼藉そのものの方法で引っ剥がして奪った壁画で、有名。しかも、第二次世界大戦のドイツが受けた爆撃から、その奪った壁画群は失われてしまったのです。

しかし、なんとか残った壁画の断片や研究者たちが書き留めた記録から、東洋文庫デジタルアーカイブとして復元が試みられています。

ベゼクリク千仏洞

トルファン市内から北東へ50km。火焔山の横を流れるムルトゥク河の断崖にある石窟寺院。 麹氏高昌国の6世紀からつくり始められ、元代まで続けられました。最盛期は9世紀の高昌ウイグル王国の時代。現存する83の窟は多くはこの時代に造られましたが、現在見学可能な窟は6窟。 20世紀始めにドイツのルコック調査隊が壁画を本国に持ち帰ったために、仏像や壁画はその一部のみしか残っていませんが、当時のウイグル族の生活や仏教文化を知る上で貴重な資料となっています。

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前漢の西域支配の牙城、交河故城です。沙漠の乾燥地帯の遺跡なので保存状態が良好で、中国では「世界で最も素晴らしい廃墟」と謳われています。前漢から唐代まで隆盛を誇ったのです。

車師国とは、トルファンを指します。

交河故城

トルファン市内から西へ16㎞。前漢時代の車師前国の都で屯田地として辺境防衛の重要地であった都市遺跡。 唐代になると都は高昌国に移りますが、引き続き安西都護府とよばれる軍事基地が設置されました。 現存する遺跡は高さ30mの断崖上の台地に位置しており、南北1km、東西300mの規模があります。 遺跡入口には展示室があり、交河故城の模型が置かれています。遺跡見学前に見ておくと全体の様子がよく理解できるでしょう。遺跡内には日陰がほとんどないので帽子や水を忘れずに。

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張騫ももちろん、ここトルファンを通って、玉の産地の亀茲、漢の公主が泣く泣く嫁がされた烏孫、汗血馬の産地の大宛を通り、そして大月氏国へ向かいました。

Tさんとご友人、トルファンから新幹線で敦煌へ。

敦煌、沙州つまり沙漠の、これぞオアシス都市。タリム盆地のシルクロードの東の拠点。

鳴砂山と月牙泉

敦煌市内から南に6km。 東西約40km、南北20km続く砂丘。鳴沙山とは、ある大将が軍隊を率いて出征の途中、強風が吹き黄砂が天を覆い、全軍が埋もれてしまった後に山中から鼓笛の音がするようになったことから名付けられたと言われています。 鳴沙山の北麓にある三日月(月牙)の形をした泉が月牙泉です。

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月の形をした月牙泉、井上靖の小説『敦煌』のクライマックスを彷彿。

なんかもう、敦煌に直に行った心地。

Tさんの宿泊先、敦煌山荘。お城みたいに豪華絢爛。酔うて沙上に臥す、こともなく。

9月1日、敦煌莫高窟に滞在されたと。丸一日費やして当然の「砂漠の中の美術館」。

莫高窟

敦煌市内から東南に25km。鳴沙山の東麓に南北1.5kmにわたって石窟がつくられています。前秦の366年から元代まで1000年にわたって開削が続けられました。現存しているのは、492の石窟、延べ4万5000㎡の壁画、2415体の彩色塑像、5つの木造建築とその規模は中国現存の石窟で最大です。特に壁画は仏像・仏教史、経典、神話など保存状態もよく残されています。 1987年に世界文化遺産として登録されています。開放される石窟は、修復等で訪問時期によっても変わりますが、約40窟。一般開放窟の他に、入場券とは別途料金が必要となる特別拝観窟が見学できます。

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莫高窟の九層楼。西夏の襲撃から免れるために壁奥に文書を隠し、守った、あの。

なぜ敦煌を訪れるか?

中国の北西砂漠の奥深くに、中国の千年以上にわたる歴史が集約され、東西の文明が融合した、アジア大陸全体で最も偉大な芸術の聖地がある。それが、敦煌莫高窟である。それは一生に一度は訪れるべき場所だ。

20世紀末に、日本の作家井上靖の小説『敦煌』は「敦煌ブーム」を巻き起こした。小説は一人の人物が運命への旅に挑む様子を描き、知られざる敦煌を浮かび上がらせ、多くの人々の敦煌への憧れを引き起こし、日本の敦煌学研究のブームを巻き起こした。

なぜ敦煌を訪れるか? 敦煌は非常に美しい夢であり、かつては西域の黄土の一部で、漢から晋、唐から宋までの千年にわたる文明の重みを支えた。シルクロードのラクダの鈴、飛天の壁画、衆生を見下す仏像、これらはすべて非常に長い物語を語っている。

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9月2日、陽関へ。Tさんもここで王維の詩を詠まれました。決死の旅だったのです、西域へは。

陽関

敦煌市内から西北に75km。玉門関の南(陽)に位置することから陽関と呼ばれます。 西域南道への関所として築かれ、唐代の詩人・王維が「君に勧む 更に尽くせ 一杯の酒 西のかたの陽関を出ずれば故人なからん」と謳っています。かつての門の跡はなく、漢代の烽火台が残されています。

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渭城朝雨潤軽塵 (渭城の朝雨 軽塵を潤す)
客舎青青柳色新 (客舎青々柳色新たなり)
勧君更尽一杯酒 (君に勧む 更に尽くせ一杯の酒)
西出陽関無故人 (西の方 陽関を出づれば 故人無からん)

西域の彼方の安西都護府へ旅立つ友人の元二を、渭城(長安郊外)まで見送った時に、詠んだ送別の歌とされています。西域には親しい友人もいないだろうから、「さあ、もう一杯」と勧めるあたり、作者の元二に対する思いやりが絶妙に詠み込まれています。

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Tさんが、陽関博物館前に据えられた張騫の像の写真を送ってくださいました。意志の強い武人の面影を慕って。現地に立たれたら、なおのこと張騫の決死の覚悟が沁みたことでしょう。

この博物館、民間人の個人資産で設営されたものです。世界には目も眩むお金持ちが存在するのです。イランにも、国道並の高速道路を私設で寄付された資産家がいらっしゃいます。

敦煌の陽関(ようかん)は中国で古代より孤独な生活を思い詠嘆する地です。二千年余りの昔、ここを行き来した旅人が一夜の安眠をむさぼり、守備兵たちが西方を睨んで立った陽関そのものは、幻となって沙漠のなかに消え去っています。唐代の有名な詩人王維の七言絶句の詩「送元二使安西(元二の安西に使ひするを送る)」が有名です。特に「西出陽關無故人(西のかた陽関を出づれば故人無からん)」の句は三度繰り返し吟じられることが多く、「陽関三畳」と呼ばれています。

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9月3日、Tさんとご友人、西安の兵馬俑博物館へ。

兵馬俑坑の発見

始皇帝陵から東へ1.5キロの地点に、世界八番目の不思議とも呼ばれる兵馬俑坑があります。1974年3月、旱魃に窮した地元農民が井戸を掘り始めたところ、2、3メートル掘ると変わった陶器の破片が見つかりました。考古学者の鑑定により、ここに始皇帝の地下近衛軍団が配置されていることが初めてわかりました。

この偶然の発見によって、地下に二千年も眠っていた世界を驚愕させる兵馬俑がようやく日の目を見ました。坑は発掘順序に基づき一号坑、二号坑、三号坑と名づけられました。

兵隊俑の平均身長は180センチ、上半身は空洞ですが下半身は空洞ではありません。顔の表情はそれぞれ異なり、身分により服装もまちまちですが、共通しているのは、いずれも手に武器を握っていることです。一部の俑にはまだ色彩が残っています。馬の高さは1.5メートルで西域の大宛の馬に似て、足が速いと言われています。兵馬俑はこの場所の付近の粘土を材料にして、彫刻などの手法を施し、最後に窯に入れて焼いて作られました。殉死制度のあった時代に人間に代わって陶製の人形を殉死品とすることから、人類文明の進歩を窺うことができます。

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要は、死後も生きているときと同じように過ごしたかったわけです、始皇帝は。

これは、項羽と劉邦、鴻門之会の遺跡ですね。

劉邦には張良と樊噲が控えています。私は張良が大好き。

華清池の楊貴妃像。大唐の繁栄を終わらせたのは、あくまでも玄宗なのですが。安禄山に肩入れしたのが楊貴妃の命取りだったに過ぎないと思います。

これは青龍寺の恵果と空海。中国一の高僧に、両腕を広げて迎え入れられた御大師さま。

中国の密教をマスターした御大師さま、奈良の東大寺で先ず日本密宗真言宗を開いたのです。

遠いシルクロードの天山山脈から、東へ向かって、とうとう大唐の都長安の御大師さままで辿り着いた。

玄奘三蔵おっしょさまが、20年以上かかって無事にインドから経典を持ち帰り、それを治めるために造った大雁塔。

Tさんとご友人、西安に3日間滞在され、帰国されました。

私もまるで旅にご一緒させていただいたかの心地。

絲路花雨すなわちシルクロードに花吹雪の歌舞でTさんとご友人のご帰還を祝したいと、勝手気ままに旅の過程を綴らせていただきました。