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母を訪ねて鬼退治

平安文学といえば、それはまあ、『源氏物語』が最高峰なのでしょうか。
私はこましゃくれた子どもだったので、小学生で『源氏物語』の原文を読み散らしていました。
意味や解釈なんて後付けです。とにかく古典の響きに触れていたのです。
それは正しかった、と断言できます。
物語、とくに古典は声に出して読み上げれば血肉と化します。

で、千年にわたる問題児の光源氏の物語と、年に一度の動画での逢瀬が待ち遠しい『鬼滅の刃』、どちらも、Bildungsromanすなわち教養小説だと、ここで類比してみようかと。

教養小説とは
主人公がその時代環境のなかで種々の体験を重ねながら,人間としての調和的自己形成を目指して成長発展していく過程に力点をおいた小説。特にドイツ文学に顕著な傾向で,長編小説の主流をなす。源泉は遠く中世にまでさかのぼり,ウォルフラム・フォン・エシェンバハの叙事詩『パルツィファル』 (1200~10頃) をはじめ,グリンメルスハウゼンの『ジンプリチシムス』 (1669) ,ウィーラントの『アーガトン物語』 (1766~67) などがある。このジャンルの規準になったのは,ゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』 (2部,95~1829) で,ケラー『緑のハインリヒ』 (初稿 53~55) ,シュティフター『晩夏』 (57) ,T.マン『魔の山』 (1924) ,ヘッセ『ガラス玉演戯』 (43) などが代表的な作品。

『ブリタニカ国際大百科事典』

「光源氏と炭治郎のどこが似てるねん」と小突かれましたら、「二人とも意外と個性がきつくない」と私は真摯に返します。
畢竟、教養小説の醍醐味は、主人公の透明さにあるので。

中心核が空洞であれば、その周囲には個性豊かな面々が集まり、自ずと挿話が枝分かれして複雑化する、つまり物語そのものが強化されるのです。

逆に主人公が独善的に立ち回る小説は、一方的にしか世界が広がらないため、最悪では誰も成長できない不毛なものとなります。
つまり、物語が、やって来ないのです。

あと、二人には明白な類似がある。
光源氏は数多の女性を知ることにより、炭治郎は数多の鬼を滅ぼすことにより、自分自身を取り戻しているのです。

数多の女性には失われた母が、数多の鬼には奪われた尊厳が、めくるめく物語として透明な主人公を訪うのです。

光源氏が最終的に辿り着いたのは境遇も容姿も自分の分身といえる紫の上の死による「自立」で、炭治郎が最終的に得たのは魂の始祖である継国縁壱の想いを繋いだ結果の「自立」で、読後感はまったく違えども、双方こんな見事な教養小説もない、と私は感服しきった次第です。

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母を訪ねて、鬼退治。
春の日に思い描いたAnalogyです。

2021年3月29日の早朝、自宅近所のお地蔵様の祠。ささやかな、これがコロナ禍の桜狩りでした。

さくら花ちりぬる風のなごりには水なきそらに浪ぞたちける

紀貫之『古今和歌集』