書架

流れ星か、見たことないな。 ―沢木耕太郎『流星ひとつ』―

私の涙は1円の価値もない。いや、1銭もないかもしれない。
すぐ泣くのです、感動すると。

閑話休題、私が初めて知ったアフガニスタンは沢木耕太郎さんの『深夜特急第2便ペルシャの風』と思い出し、沢木さんの著作を再訪してみることに。
私は3歳のころから濫読家ですが、結婚してから本はなるべく買わないように努めていたので(識者ぶって蔵書量を誇るなんて、お粗末な裸を見せびらかす精神の露出狂としか思えなくなり)、もちろん図書館を利用してのこと。

図書館の本は、みんなのもの。つまり、誰のものでもない。
所有の頸木から放たれた存在は太古の巫女のように、とても自由で清潔に思えるのです。
私にとって、自由と清潔は同義です。

さても『深夜特急』、日本語に飢えた旅人たちが手持ちの本を交換することにより、シルクロードを東西で行き交う和書、本も旅するのだと。『人の砂漠』の良さがわかる人としか、私は付き合えない。『一瞬の夏』のカシアス内藤と沢木さん、なつかしい、まぶしい、10代の読後感。
ふと、図書館の書架、未読の本を見つけ。

©Amazon

『流星ひとつ』は、歌手藤圭子と作家沢木耕太郎の対話、鉤括弧だけのインタビュー本。
藤圭子さんは、その壮絶な最期がどうしても看過できず、敢えて意識外においた存在。
でも、「旅も人生も深めるなら一人がいい」と仰る沢木さん、その領分に在る藤圭子さんなら、私も理解が許されるかもしれない。

水晶のように硬質で透明な精神。

美しかった「容姿」だけではなかった。「心」のこのようなまっすぐな人を私は知らない。

透明な烈しさが潔癖に匂っていた。

沢木さんの目に映った藤圭子さんの姿。
同志のような男から、こんな静かに煌めく三日月めいた美しい言葉を捧げられ、ひと思いに胸に突き刺されたら、女はもう今生に思い残すことは何ひとつなくなるかもしれない。

流れ星か、見たことないな。

子供時代、何も見てなかったのかもね。

故郷なんてもう何処にもないんだよ。

藤圭子さんの言葉に、私は声を殺して泣きました。
私も幼少期の記憶が曖昧で、薄情者だと旧知によく謗られたので。
私は藤圭子さんとは逆に、流れ星しか見ようとしなかった。それもまた、いびつな子どもだったのだと。

シルクロードのオアシス都市の葡萄棚の木蔭、沢木さんと肩を並べる藤圭子さんは、まったく有り得ない姿ではない。
身一つで世間を渡れる歌手なのだから、世界中どこでも歌えたはず。
どんなに美しかっただろう、葡萄棚の下で歌う彼女は。
その万感籠めた歌声は、洋の東西の十字路を駆け抜けたはず。

間違った恋をしたけど、間違いではなかった。

宇多田ヒカル『Be My Last』

恋をいろいろな言葉に変えてみれば流れ星が見えてきそうな気がします。

母の流れ星は「光る」の名を与えられた娘だったのではないでしょうか。