マルクス・アウレリウスの言葉を必要とする心境になり。
私はこの哲人皇帝が古代ローマ史の登場人物の中で、いちばん好きなのです。
敬愛する作家マルグリット・ユルスナールの代表作『ハドリアヌス帝の回想』は、フランス語で“Mon cher Marc”「親愛なるわたしのマルク」すなわちマルクス・アウレリウスへの呼びかけで始まります。
語彙の選択、構文のたしかさ、文章の品位と思考の強靭さ。
それらで読者を魅了することが、ユルスナールにとっては、たましいの底からたえず湧き出る歓びであり、それがなくては生きた心地のしないほど強い欲求だったにちがいない。
早世された須賀敦子さんの、ユルスナールへの敬意とご自身の生きざまへの追想でもある、秀逸な連弾のような随筆集『ユルスナールの靴』での一文。
私は、17歳のとき初めてユルスナールの作品を読むなり、頭のなかのすっきりとしない靄が一掃された心地になりました。
これが西洋の身構え、硬く引き締まった、甘えという贅肉を一片も纏わせない、静謐な、揺るぎない、鍛え貫かれた西洋の精神だと。
目を見開いたまま、死のなかに歩み入るよう努めよう。
『ハドリアヌス帝の回想』の掉尾に従い、私も生きて死を見つめよう。
誰に誓うでもなくそう決めた、17歳のとき。
もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。
そんな目に逢うのも当然のことだろう。君は今日善い人間になるよりも、明日なろうっていうのだから。
良い人間のあり方を論じるのはもう終わりにして、そろそろ良い人間になったらどうだ。
あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。
君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。
君の全生涯を心に思い浮べて、気持をかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。それよりも、一つ一つ現在起ってくる事柄に際して自己に問うてみよ。「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。
一緒になって大きな声で嘆かぬこと、騒がぬこと。
ところで君はどんな被害を蒙ったのか。君が憤慨している連中のうち、誰一人君の精神を損なうようなことをした者はないのを、君は発見するだろう。君にとって悪いこと、害になることは、絶対に君の精神においてのみ存在するのだ。
今すぐにも人生を去っていくことのできる者のごとく、あらゆることをおこない、話し、考えること。
常に決意せよ。ローマ人として、男として、自分が引き受けていることを、几帳面な飾り気のない威厳をもって、愛情をもって、独立と正義をもって、果たそうと。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』