2019年12月30日にNHKのスペシャルドラマ『ストレンジャー 上海の芥川龍之介』を、2020年1月1日に同じくNHKのドキュメント『2000年を生きる 塩野七生と高校生の対話』を、年末年始の眼福としました。
芥川が上海で出逢った男娼のルールー、彼が無残に横死した際、石畳に流れたその血を吸わせたビスケット、それを割って葬列者全員で食べる、その弔いのシーン、芥川の『湖南の扇』が題材でしょうが、魯迅の人血饅頭とは一味も二味も異なる影を帯びていました。
血の力による無病息災を願うのではなく、死者の無念を生ける我が身に飼う、それは粛然たる「水盃」に思えました。
芥川の自死の理由、それは、「漠然たる不安」とのことですが、そこへ歴史の波に呑まれた人々の血肉、魔都上海の空気に交え、我が身に吸いこんでしまったことも、一因ではないでしょうか。
塩野七生さんが学習院の後輩たち、それも高校生の問いに答える、なんて歯ごたえのある講義。
私も10代の頃、塩野さんの著作をかたっぱしから読みあさりました。
チェーザレ・ボルジアとルクレツィア・ボルジアの別れの舞い、今でもすぐ眼前に蘇らせることができます。
塩野さんの、精悍とした文体から滲む、人としての厚み。
英雄を求めないヴェネツィア共和国、国自体が主役、それを自分の目で確かめたくて、私はイタリアの地にも渡りました。
優れた作家は読者に行動を促すのです。
高校生の一員になったつもりで、私も塩野さんの特別授業を傾聴しました。
Crisisとは語源のギリシア語Krineinにおいて「峠を越えた=蘇生」も意味する。ラテン語Krisisは「転換点、転機」とも。
恩師呉茂一先生の「危機とは、蘇生でもある」の教えが、塩野さんをどれほど救ったか。
書くたびごとに塩野七生を捨てる。
この言葉に私は最も痺れました。
自分みたいな並みの人間の見識で史上の偉大な存在を矮小して語りたくない。
そう仰る塩野さんがどれほど誠実にコツコツと研究を積み重ねてこられたか、ほんとうによくわかります。
勉強すればするほど、人は謙虚になるのが自然だから。
芥川のように時代の不安をいち早く嗅ぎとって地に伏すのも、私は有りと思います。
そして同時に、倒されても倒されても冷然と立ち上がる、塩野さんの隠れたド根性も、私は有りと思っています。
東洋と西洋が融合される、そんな調子の良い存在でありたいと。
とざい、とーざい。
東西声の口上で、私も初心を取り戻します。