宇治の西空、落陽。
涙でカメラの焦点が合わせられない。
2020年7月18日、午後、ドライブも兼ねて宇治へ買い出しへ向かっていました。
何気に覘いたスマホのニュース、俳優の三浦春馬くんの訃報。
車窓から展がる光景、豊穣にうねる宇治川の流れ。
自死した菟道稚郎子が治めた、宇治。
どうしても声を圧し殺せず、私は呻き泣きました。
あまりテレビを見ない私ですが、三浦春馬くんは子役のころから見知っていました。
とても美しい姿かたちをした少年でしたが、どう明朗にふるまっても、青く澄んだ影を消せない子でした。
こういう青年こそ、菟道稚郎子や草壁皇子のような、繊細で気高い王族の若者を演じるべきだと、つねづね私は妄想していました。
だからといって夭折まで、そのふたりと同じ道を辿るなんて。
私は、ごく身近な人を自死で亡くしています。
死に顔の口元が微笑んでいて、ああ、やっと楽になれたんだ、そうとしか思えませんでした。
もう苦しいことも悲しいことも何もあなたを苛まない、安心して眠ってほしい、そうとしか。
そのひとの身になれないのなら、そのひとについて、なにひとつ、口にするべきではない。
死ぬことが怖いんじゃない。生きていくことが怖いんだ。
そう三浦春馬くんが台詞として語った言葉を知りました。
ねえ、世の中には、すこしばかり神経が細いために育たない子どもが、たしかにいるんだよ。
萩尾望都さんの漫画『ポーの一族』で主人公のエドガーが、自死した少年ロビンを象った言葉。
私は、子どものころ、『ポーの一族』のエドガーと『トーマの心臓』のオスカーに似ていると言われたことがあります。もちろんあんな鋭利な水晶のような美少年ふたりの容貌に私など程遠く、しかし、鋭利な水晶そのものが私の胸の内でいつも尖っていたことは認めます。
尖っているからこそ惜しむ、やさしさを。
眠れない深夜、ヘッドフォンで耳にそそぎいれている楽曲は、吉田拓郎がロックにアレンジしたかぐや姫の『神田川』。
前後のコーラスのリフレインが、儚い夭折者の走馬灯のようで、私は涙をとめられない。
何も怖くなかった 何も怖くなかった