2024年4月25日、奈良国立博物館にて開催中の「生誕1250年記念特別展 空海 KŪKAI 密教のルーツとマンダラ世界」を観に行きました。
木曜日の平日、ちょっとは混雑も回避できるかな、と目論んだわけです。しかし、奈良国立博物館はまだましでしたが、奈良公園は観光客がわんさかで見渡すところ外国人が9割、むしろこっちが海外へ行った心地になりました。
スーパースター空海。私には恐れ多い存在。
しかし、空と海、私は子どものころから空海のその法名こそ世界一すてきな名前だと認めていました。
空と海、大きくて広くて豊かで深い、しかも何ひとつ飾るものなく、あるがまま。
空海、これ以上の名前なんかない、と。
室戸岬の御厨人窟(みくろど)で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開き、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗った。
空海 Wikipedia
この文殊菩薩像のみ、撮影が許可されていました。SNSで周知も認可されています。
ひとつの大理石から彫り出した逸品、この、8世紀に唐の都の長安(西安)で作られた高貴でふくよかなのに凛と引き締まった絶妙な容貌の文殊菩薩は、密教仏です。留学中の空海も見たかもしれない、そんな夢に溢れた仏像です。
第1章 密教とは ―空海の伝えたマンダラ世界
第2章 密教の源流 ―陸と海のシルクロード
第3章 空海入唐 ―恵果との出会いと胎蔵界・金剛界の融合
第4章 神護寺と東寺 ―密教流布と護国
第5章 金剛峯寺と弘法大師信仰
空海の生涯と成果をとてもわかりやすく紹介する展示構成だと思いました。
密教は、仏教を顕教と密教に分けました。顕教は修行した者が悟りを得られるとの教えで、密教は仏も人も本質は同じと説く教えですが、ここですでに、いかに密教が一歩間違えれば危うい教えであるかをいみじくも明かしています。
だから、秘密の教え、なのです。
御大師さま空海は「文字で説明してもわからんて」と最初から仰っているのです、密教を。
だから、マンダラという絵にして、聲明という音にして、人間の感覚に攻めていったわけなのです。
密教は、かなり、「感じる」がメインテーマだろうと私は思っていますが、実際、私にしたってなんにもわかっちゃいないのです。
でも、御大師さま空海がすっくとマンダラの前に立ち朗々と説けば秘密が秘密でなくなったのかもしれない。わからないものが、その瞬間、わかったものになったのかもしれない。
虚空尽き 涅槃尽き 衆生尽きなば 我が願いも尽きなむ
みんなの悩みがなくなるまで、おれも一緒に悩み続けるよ。
未来永劫、そばにいるよ。
私は御大師さま空海のことを想うと、2014年に放映されたドキュメンタリードラマ「山田孝之の東京都北区赤羽」で、赤羽在住のシンガーソングライター斉藤竜明さん歌う『永遠の、少年。』を思い出さずにはいられなくなるのです。
生きる意味をください
死にゆく意味をください
愛する意味をください
それが嘘でもいい
私が心底希求するものを、ただひとつ欲しいものを、空と海の名を持つ、あのひとはくれる。
それだけでいい。
弘法大師空海とは
774(宝亀5)年、弘法大師空海は讃岐の国(現在の香川県)で産まれました。
幼名は真魚(まお)といい、貴人の死後に賜る諡號(しごう)を弘法大師といいます。
788(延暦7)年、平城京に上り、翌789(延暦8)年、15歳の時に、儒学者である叔父の阿刀大足(あとのおおたり)について文章などを学び、18歳で大学に入ります。
御仏の道の修行を始め、20歳の時に得度し、22歳で名を空海とされたといいます。
797(延暦16)年、弘法大師空海が24歳の時に、儒教、道教、仏教の比較思想論「聾瞽指帰(ろうこしいき)」※後に改定し「三教指帰(さんごうしいき)」を著します。
その後、山岳修行、奈良の寺院での仏教の学びを経て、804(延暦23)年、留学僧として遣唐使船で唐に渡ります。その時、桓武天皇より派遣されていた最澄も同じ船団に乗船していました。弘法大師空海、31歳の時です。
幾多の暴風雨に見舞われながらも、福州長渓県赤岸鎮に漂着。長安に上り、密教の理解に必要なサンスクリット語や最新の知識を学びます。そして、正当な真言密教を継がれた第七祖恵果和尚(けいかおしょう)に会い、「われ先より汝の来れるのを知り、相待つこと久し」と語られたといわれています。
805(延暦24)年、弘法大師空海は、遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられ、真言密教の第八祖になります。
密教の師となった弘法大師空海は806(大同元)年に帰国します。そして、810(弘仁元)年、時の天皇・嵯峨天皇に書を奉り、「真言宗」を開く許しを得ます。
そして、816(弘仁7)年、修禅の道場を高野山に建立したい旨を朝廷に願い出ます。
821(弘仁12)年には、満農地の修復工事を完成させ、東大寺に灌頂道場真言院(かんじょうどうじょうしんごんいん)を建立しました。823(弘仁14)年に嵯峨天皇より、京都の東寺を給預されます。
828(天長5)年には、「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」という庶民のための私立教育施設を創設します。弘法大師は教育の重要性を説いたといいます。
また、四国八十八カ所を開創するなど、悩み苦しむ人々にご利益があるようにとも動かれました。
832(天長9)年、高野山に金堂が完成します。そして、835(承和2)年、弘法大師空海は入定されました。そして、921(延喜21)年、弘法大師の諡號を賜ることになります。
大本山弘法寺ホームページ
もう夏の陽射し。さて、次の目的地を目指そうか。
奈良国立博物館から約1kmを15分ほど歩いて、春日大社本殿へ。この通り、藤が花の盛り。
お目当ては、この時期限定の藤守り。そろそろ完売だそう。
空海展の戦利品。両界曼荼羅のマグネット、伝船中湧現観音像の絵葉書、風信帖(空海が最澄に宛てた手紙)のクリアファイル、金剛般若経開題残巻の絵葉書。
伝船中湧現観音像の実物の魅力は、この絵葉書の100万倍くらいあります。実物はもっと繊細で緻密で、真珠のように慎ましく輝いています。今回の展覧会で一番のお気に入りが、この観音像でした。入れ子細工のような両界曼荼羅、こんなちいさなマグネットでも見ていると気が遠くなります。風信帖や金剛般若経に限らず、御大師さま空海の真筆にはどれも圧倒されました。古文書になんかまったく興味なかったのですが、空海の文字だけは解読したくなりました。やっぱり好き、この闊達な文字がいちばん。
総じて見ごたえのある展覧会で大満足。キャンパスメンバーなので観覧料金は一般の5分の1の400円で、申し訳ない、感謝です。
息子に求められて、この藤の花のお守りは窓につるして飾ることに。上品に陽を透かし、立体のステンドグラスのよう。藤守り、5年くらい前から入手しそびれていたので、満願成就で嬉しい限り。春の置き土産です。