戦争は数ではなく、作戦。そう言ったのは誰だったか。
ああ、石原莞爾だ。
敗戦後、アメリカの新聞記者マーク・ゲインの取材を病床で受けた石原莞爾は、病身にありながらも敗戦国の軍人でありながらも何食わぬ顔、相手の足元を見て答えた。
私が現役にとどまっていたら、あなたがたアメリカ人に、もっと金を使わせたでしょう。
さすが東京裁判で、トルーマンこそ第一の戦犯と、世界へ向けて言い放った男。
しかし、石原莞爾は天才ではあっても、満州事変の発端人として断罪すべき重罪を犯した人物。
しかし、当時の日本政府、天才率いる関東軍をもはや御せない怯懦ぶり。
父である張作霖を関東軍に爆殺され、蒋介石による50年もの軟禁を甘受した張学良が、敢えて日本の取材に答えたのは。
私は、力を振りかざすものに対しては、恐れることなく反抗する人間です。
憎むべき日本人である私などに共感されても、張学良は嬉しくもないだろうけれど。
たかだか100年前。
昨日や今日、流れたような血。
天王寺の妖霊星、張作霖の生まれ変わりと浮浪者に告げられた私には、戦術や兵法は子守歌みたいなもの。
私はいつもこう。挿話から挿話へ渡り歩いてしまう。
下戸の私、精神の梯子酒。
そもそも、私の作戦。
スクーリングは参加すれば必ず単位をもらえるのが金にものを言わせるようで、多少は後ろ暗いのですが、これも作戦、背に腹は代えられない。
否、現地スクーリングの充実は、やはり在宅スクーリングでは補えない。
専門科目の各論の全制覇も諦めました。
興味薄の近代にからむ科目は無理して取ることはない。
楽しめない勉強は、しない。
楽しむために、勉強するのだから。
石原莞爾の言う戦争における数とは兵力のことで、私の奈良大学通信における兵力とは初心すなわちMotivationで、これはそうStoicに保てるものではない。
だから、作戦、プランを練るのです。
私は変化を恐れません。
日和ってやがると後ろ指さされても、私が日和らないといつ言った、そう即座に矢を還します。
いかなる攻撃もその頂点に達すれば、防御に移らねばならない。
クラウゼヴィッツ『戦争論』