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2024.6.29 遊女の空の巣

2024年6月29日、大和郡山市洞泉町の町屋物語館へ。
大正13年に創建されたこの木造三階建ての数寄屋造りの贅を凝らした町屋、昭和33年に廃業されるまで遊廓「川本楼」として営業されていました。
大和郡山市は金魚の名産地、川本氏も金魚の養殖で莫大な富を得、遊廓営業を始めたのです。

そもそも遊女は芸事の一環として売色を兼ねていただけで、依頼があれば遊女を束ねる長者が斡旋する、自由度の高い職能でありました。
それが、前借金のかたに娘を囲う遊廓のシステムが江戸時代に成立するとともに、遊女を籠の鳥として、文字通り飼い殺すようになったのです。

遊廓の歴史を紐解くと、徳川幕府が大嫌いになります。
私はフェミニストではありませんが、なぜ女ばかり搾取するのかと、歯嚙みせざるを得なくなるのです。

ではなぜ前借金で拘束し、遊廓の外に出られないようにしたか。それは、女性たちが不特定多数の男性たちと身体的な関係を持つことを、望まないからです。とても当たり前のことです。

田中優子『遊廓と日本人』終章 遊廓をどう語り継ぐべきか

私は、色を売りたい者が勝手に色を売るのは、どうだっていいのです。
色を売りたくない者にそれを強いる、それに断固異議を唱える、ただそれだけなのです。

10歳のころ、子ども向けに現代語訳された『たけくらべ』を読んだとき、美登利と信如、遊女と僧侶、生きながら死んだような、生まれながらこの世のものではないような女の子と男の子の、あの世でしか交わりようのない絶望的な身の上を、私は初めて知ったのです。
この世には、地獄の釜の蓋がそこかしこに開いているのだと。
つまりこの世は地獄、だから極楽として僧侶が捧げた一輪の花、水仙が、遊女の記憶に匂いとどまるのだと。
樋口一葉は、人の悲しみが、わかりすぎるほどわかった書き手でありました。

遊廓は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である。

田中優子『遊廓と日本人』はじめに

人間であることの悲しみ、それを踏まえて、この夏の始まり、私は遊女が飛び去った跡を辿ることにしたのです。

西の近鉄からでも東のJRからでも駅から歩いて8分ほど、町屋物語館へ。白壁の、ハート形の猪目(いのめ)の切り抜きが目印。

三階建ての川本楼、驚いた、ものすごい風格です。

1999年、大和郡山市がこの遊廓建築を8000万円で買い取り、7600万円かけて耐震補強を施し、2018年から一般公開したのです。
遊廓は人権蹂躙の負の遺産ではありますが、それをなかったこととするのは誤魔化し以外の何物でもなく、大和郡山市の勇断を称えたいです。

玄関から帳場に上がると、中庭を挟んで大広間が見えます。障子は大正時代のガラス製、向こうがゆがんで見えます。欄間ガラスの文様、雲水か霞かのバリエーションでしょうか。

帳場の向かって左の廊下、黒戸の向こうは料理坊です。遊廓でたいした料理をつくるわけはなく、お酒とつきだし程度の提供にとどまったそうです。何か食べたいときは、仕出し屋から出前を取ったそう。

なんて立派な造りなのか。遊廓に売られてきた娘には、それまで下駄さえ履いたことのない子もいたそうで、こんな磨き抜かれた美しい日本家屋に、どれほど面食らったことか。

料理坊を過ぎると階段。松模様に壁が刳り貫かれています。これらは足元を照らす灯り兼、見張り窓でもあったような気がします。なお、一階には階段が四箇所あり。

松の階段の手前、洗面所。すごくモダン。お女郎さんが専ら使っていたのも納得。

洗面所の隣は浴室。浴槽の跡があります。見るからに寒そう。

天井には川本家の紋、三つ柏。川本家の人々専用の浴室とも言われていますが、お女郎さん専用としか思えません。

着替えの間。川本邸と川本楼は、廊下でつながっていました。主人と使用人が同居するとは、なんというか、町屋文化なのです、遊廓も。

浴室の隣は厠(かわや)。ここは主にお客が使ったそう。お女郎さんは、三階にある厠を使ったのでしょう。

松竹梅、縁起の良いガラス窓。

手前の松の扉。うわあ、バカラのグラスみたい。結霜ガラス、すばらしい。

松の扉だけ、当時の把手が残っていました。把手も松なのです。ちょっとその芸の細かさに感動しました。

真ん中の梅の扉。おそらく、もともとはここに竹の扉が置かれていたのでしょう。

奥の竹の扉。今は使用不可。松と梅は、現代のトイレが置かれ、普通に使用できます。

向かって左の戸の向こうには、男性用の便器が置かれています。で、この木の板、もとは分厚いガラスの板で、床下に水槽として金魚が放たれていたのです。
どこの遊び場の手練手管だったか忘れましたが、人間は用を足すと現実に引き戻されるそうで、客の用足しには厠まで必ず芸者がついていったそうです。つまり、酔客のおぼつかない足元を気にかけているわけではなく、もっと居ついて花代を落としていってもらうために、帰巣本能を誘発させないために、芸者は客に肩を貸しているだけなのです。
ここでも厠にこんな豪華な水槽の金魚鉢を置いたのは、そういう理由からではないでしょうか。

裏庭に、金魚鉢のガラス板の破片が残っていました。分厚いガラスは重さには耐えるのですが、物が落ちてくるとどうしても割れてしまう、物理的な理由から取り払われたそうです。

裏庭には十二支の彫像をぐるり巡らせた石灯籠。その向こうの蔵からは川本邸です。右には、遊廓の営業が終わってから造られたという茶室。

網代天井は茶室にふさわしい。しかし、壁に埋め込まれた半柱の隣、川本邸へ至る襖戸。

南の壁に切った躙り口は茶室として正しい。しかし、北の壁に床の間が設えられていない。やはりここはそもそもが茶室ではなく、川本邸と川本楼をつなぐ亭(ちん)、四阿(あずまや)だったのでしょう。

十二畳の大広間。圧倒されます、一様に高雅で。

大広間は川本氏の居室でもあり、大きな催しには宴会場ともなりました。

長押は欅の一本造り。遊廓経営以前に先ず、どれだけ金魚養殖は儲かったのか、です。

書院の欄間。桐に梅が枝に三つ柏に枝野菊に蔦。家紋の並び、何か意味があるのかもしれません。

違い棚の床板も、欅の一枚板。床柱の木材の槐(えんじゅ)は、木偏に鬼と書くので、家に鬼を置く、つまり魔除けを表します。ちなみに床柱の瘤は、敢えて彫ったものです。いかにも鬼っぽい木肌にしたかったのかと。

亭主の川本氏、自分の商いにこそ鬼が巣食うと観念していたのかもしれません。

違い棚の上、天袋の下の板、杉の板目と柾目を交互に組んでいます。表から見えないところまで数寄を凝らしているのです。

左は夏障子の簀戸(すど)。右は冬の障子。どちらも雪見障子として、ガラスが入って向こうが見えます。

大広間から中庭、そして帳場を臨む。

お女郎さんたちを苦界に落として得た財で、こんな見事な日本建築の粋を集めて。罪深い。しかし、見入ってしまわざるを得ない。

井戸。蛇口がついています。魔除けの天燈鬼と龍燈鬼も以前はここに据えられていたそうです。遊廓には鬼がつきものなのでしょう。

さて、松の階段から二階へ。ここから、地獄が始まるのです。

松の階段を上がると、そこは八畳の案内所。ここでお客はお酒を飲みつつ、お女郎さんの支度を待ったのです。

寝殿造りに納められた雛人形。このお雛様はあまりにも繊細なため、出し入れで傷んでしまう恐れから、通年ここに飾られることになったそうです。

向こう正面の階段が、上ってきた松の階段。案内所の左手にも、別の階段が見えます。これは、お客同士をなるべく搗ち合わせない配慮。

左手、松の階段。右手は案内所。向こうに見える廊下、左手は中庭の吹き抜け。

もうひとつの階段から上ってくると、こういった景色。

丸窓から見えるのは、髪結場。

猪目窓が見える、一階からの吹き抜け。

もしかしたら、ここで身支度を整えているお女郎さんたちが、あの猪目窓から遠くても覗けたのかもしれません。猪目窓のハート形はすごく目立つので、川本楼の看板ともなっていますし。

猪目には火災除けの意味があります。猪は火に向かって走ってそれを消すそうで。なるほど、だから料理坊の壁に猪目窓を。

髪結場を背にして、案内所の横の階段、その向こうの奥の階段まで進みます。

二階は、格下のお女郎さんがお客を取ったそうです。二階への階段を踏みつけるように、三階への階段が覆いかぶさっています。

奥のこの階段は、一階の娼妓溜(しょうぎだめ)に通じています。娼妓溜については後述。

左手は案内所。右手には四軒の客間、そして突き当りを左に、二軒の客間が並んでいるのです。

壁の吹き抜けは排気孔とも言われていますが、実際はお女郎さんがお客に危害を加えられたときに、助けを呼ぶ声を外へ届かせるためのものだそう。

三階の一間が四畳半以外、客間は基本、三畳です。どの部屋にも釣り床が設えられています。床の間、つまりは正客を迎える礼を尽くしているのです、たった三畳でも。

木の板には電気メーターが貼られていました。下宿人にそれぞれ電気代を徴収するために。昭和33年に遊廓が廃業され、下宿となった川本楼、奈良県で一番歴史が古い高校の郡山高校の学生におもに利用されたそうです。郡山高校は郡山城内に建てられているほどの名門で、もちろん進学校ですが、勉強一辺倒ではなく、とても自由な校風で有名です。

大階段の前の客間。この客間、いくら障子で仕切っても、落ち着けなかったことでしょう。

ここはよっぽど混みあったときにしか使わなかったのかもしれません。

この大階段、雛祭りの時期には雛人形で埋め尽くされるのです。壮観とのことで、再訪したいです。

雛祭りは遊廓によく似あいます。雛人形も遊女も、どちらも美しい犠牲だから。

大階段の正面の客間、その隣の客間から廊下を挟んで、客座敷と案内所を臨む。

客座敷の横の廊下、まるで橋のよう。遊廓には、ここではないどこか、非現実へいざなう演出が散らしてあります。

四畳半の客座敷、ここも待合です。お女郎さんの支度には時間がかかるのです。待たすという、手練手管でもあるのかもしれません。

立ち入り禁止のこの渡り廊下の向こう、座敷棟です。こんな高雅な渡り廊下、お女郎さんがここに立って、中庭でも見下ろしていたのでしょうか。もしくは空を見上げていたのか。

三階へ至る階段は、大階段を除けば、この一箇所だけ。

三階でお客を取るお女郎さんは、格上です。つまり、逃げられては困る金の卵を産む鳥なのです。だから屋根伝いもできない、逃げにくい三階に囲ったのです。階段の数まで少なくして。

三階には髪結場もありません。階段前に厠があるだけです。

この客間、くりぬき窓にはもともとガラス窓が嵌められていたそう。この窓の意匠、最初は宝珠と思ったのですが、下部のカールや支柱の形状から植物の葉……まさかの葵? 葵って、将軍様の紋でっせ! まあ、大正時代やから、ええんか。

そして、隣の客間を、葵の御紋の窓ガラス越しに覗けた、と。うーん、これは、両を跨いで客間を貸し切れる御大がいたということでしょうか。こんなこと、誰が考えて図面を引くのか。江戸時代から受け継がれた、粋人のノウハウでしょうか。

八畳の客座敷。ここは宴会も催されたそうで、横の大階段から上ってこられる御大のための設えということでしょう。

ギョッとしたのは、渡り廊下のない三階の、客座敷の窓の木枠に穿たれた複数の穴。これは、鉄格子の跡では?

ああ、きっと下宿屋にしたときに鉄格子を外して木の格子にしたんだ。

鳥籠だ、やはりここは。

大階段。階段を上れば上るほど、苦しみは増す。逃げられなくなる、上るほど。

こんなにも明るいのに、こんなにも切ない。遊廓は、人を鳥にしてしまう、もう人間ではないものへ。

もしかしたら階段から落ちて死のうと思ったお女郎さんもいるかもしれない。明かり取りの窓から降り注ぐ陽光に、まぶしいほど悲しい想像を私はしてしまいました。もしそれで亡くなったお女郎さんがいたとすれば、どうかそのお女郎さんを極楽へ往生させてあげてくださいと。

この世は地獄、もう地獄は知ったから、と。

気が狂ったように私は写真を撮りました。私と彼女たちと、いったい何が違うというのか。同じ人間、同じ女、みんな同じ、同じなのに。

天国へ上る階段にも見えた、まぼろしでも。

一階に戻って、ここは玄関の隣の娼妓溜。ここでお女郎さんたちはお客が決まるまで待機していたのです。今はこの建物の成り立ちの資料室となっています。

明治34年に張見世は禁止されたので、大正13年の当時、見世物のように格子窓へ遊女が並ぶことはなくなっていました。

ではどのようにして品定めをしたのかというと、写真でした。

店の前で迷っている客の招き寄せ、写真のお女郎さんたちの紹介、遊廓のしきたりの説明など、この川本楼の金魚掬いの情景を藍で染め抜いた半被をまとった、客引の仕事でした。

通庭にいたるまで、引き戸の向こう、玄関口の壁にお女郎さんたちの写真を掲げたのです。ちなみに当時、壁の下部は池で、金魚が放たれていました。

金魚みたいに掬いにこられるのか、女は男に。

遊女とは遊ぶ女で、遊ばれる女ではなかったのに。

それがもはや、人ではない、鳥籠の鳥、ガラス鉢の金魚なのだと。

玄関口、客引の控室。客引あっての商売でもあったのです、遊廓は。

帳場。ここは基本、会計に携わる者も客と顔を合わさないよう、小窓で対応しました。

障子を閉めていても、猪目窓で、玄関口の人の出入りは窺えたのです。

ふりだしに戻って、帳場に置かれた棚、これは料理坊に置かれていた食器収納棚です。

この棚に、お女郎さんたちの自分専用の食器がしまわれていたのです。マックスで20名、この遊廓に囲うことができたのでしょう。客間を見るより、この棚を見るほうが彼女たちに近づけます。

帳場の隣は仏間で、その隣であり、客引控室の裏でもある療養室は、病気になったお女郎さんの看病部屋でありました。住み込みの老夫婦と客引が、弱ったお女郎さんの面倒を見たそうです。みんな、肩を寄せ合って、必死で生きていたのです。

療養室、今は町屋カフェ「かたらい」として、100円でコーヒーやジュースをいただけます。
テーブルの上の籠に盛られた色とりどりの紙細工の傘、私が「この傘、独楽にもなる」と言いますと、給仕の女性が「独楽って気づいてもらえたの、初めてです」とたいそう喜ばれました。
給仕の女性、「どうぞおひとつずつもらってください」と仰るなり籠に盛られた傘の独楽をぜんぶ放り出されたので、主人と私、ひとつずつ選びました。

「ありがとうございます、もらってもらえて」と私と主人に頭を下げた、純真に澄みわたった給仕の女性の言葉に、この傘をもらわないひともいるのか、そう気づき、反って切なくなりました。

私も主人も、明るい色の傘を選びました。今日は友達と遊びに行った息子と別行動で良かったのかもしれないと思いつつ。中学生男子には生々しい、同い年くらいの女の子たちの苦しみを追体験するのは。

人面鳥、極楽に住み美しい声で鳴く迦陵頻伽のような遊女たち、鳥籠から飛んでいって、人間に戻って、安らかに。

川本楼のほど近くに、日本三稲荷のひとつ、源九郎稲荷神社があると地図が指し示すので、てくてく歩くこと3分、これはまた見事な元遊廓に出会いました。

朽ち果てそうなので、なんとかならないものかと。朽ち果てて当然と、もうひとりの私がつぶやくのですが。

元遊廓の真横、源九郎稲荷神社がおわしました。

源九郎稲荷神社
源九郎稲荷神社の公式ホームページです。 「義経千本桜」に出てくる源九郎狐をお祀りしています。 市川猿之助さん、中村勘九郎さんもお参りくださってます。

すごく有名なお稲荷様なのに、これが初めてのお参り。とても親しみやすいお宮さんで、ほっとしました。

紫陽花が綺麗でした。今年初めてまともに眺めた紫陽花の園。

とっても見事な百合。コンカドールかな?

宮司さん「花はどんな季節でも美しく咲いています」と。

遊廓に咲いて散った女性たちに捧げたくなりました、この天上の心地の香りを惜しみなく放つ百合の花を。

元来た道を辿って。近鉄大和郡山駅、その向こうには大和郡山城の跡。すごく身近なのに、途方もなく遠い世界へ旅に出た気になった、梅雨の合間の晴れ間の午後。

私は遊廓の跡を訪ねることが念願だった。