今月末から第76回正倉院展が開催されます。それに合わせて、私もこのブログで日間6日間、正倉院展の特集を始めます。寧楽の都は秋が最も似つかわしい季節、1300年前の記憶、紐解く錦秋の季節なのです。
2019年11月11日、「御即位記念 第71回 正倉院展」へ行きました。
平日の正午前、待ち時間は10分で奈良国立博物館内へ入れました。
この時間帯、ツアーなどの団体客が昼食を一斉に摂るので、狙い目なのです。ただし、平日に限ります。
私は近傍在住ですので毎年でも正倉院展に向かえますが、意外とそう毎年は足を運びません。
今年は史料学概論のレポートの主題にも掲げた赤漆文欟木御厨子を目当てに、奈良国立博物館から頂いた招待券を握りしめて、行列に並びました。
で、宝物を目に、改めて感心しました。どれもこれも、なんて保存状態が良いのだろう、と。
赤漆文欟木御厨子は想像より小ぶりで、ここに納めるものは「厳選されたもののみ」だったにちがいない、と改めてしみじみ。
天平宝字二年十月一日献物帳藤原公真跡屏風帳、藤原不比等の端正な真筆を目に、思わず感動した自分自身にびっくり。
ああ、淡海公、ほんとうに生きていた、生きて時代を切り開いて死んでいった、この自制の効いた字を書いて、書き残して。
モジの持つあらゆる伝達能力に、圧倒されました。
そして、衲御礼履(のうのごらいり)、聖武天皇が儀式の際に用いた靴。
昨日今日、履かれたばかりのようなそれは色あざやかな紅い靴で、しかしこんな極めて美しい靴に包まれても聖武天皇の足は重く、心は翳ったまま。そんな悲しみが、私の脳裏、うずまきました。
歴史をきちんと勉強するまで私には正倉院の宝物は、ただ美術品でしかありませんでした。
綺麗だな、豪華だな、Exoticismをくすぐられるな、それくらいのものでした。
しかし野狐禅は承知で史料学概論を終えたいま、正倉院宝物は「伝来品」としてあの時代を懸命に生きた人々のせつせつとした息吹を籠めた結晶として、それらに心の慰めを求めただろう聖武天皇、その人となりまで語ってやまない「慈しまれた品々」と、私に解き明かしてくれているのです。
これらはただの鑑賞品ではない、誰かに愛され、大切に後世に伝えられた、「想い出」そのものなのだと。
今回の正倉院展の戦利品、トランプです。一枚一枚、異なる宝物が。
ここに、今年の出展品を掲げてみました。
今年は瑠璃杯が出展されていなくて、残念。
以下、敬愛する白洲正子氏の一文です。
これを読んで、なぜ私が宝石より硝子が好きなのか、わかった気がしました。
正倉院の中では目移りがして、何が印象に残ったかと訊かれても、にわかには答えられない。
私はまだ若かったから、しいていえば、それはガラスだったかもしれない。白洲正子『私の古寺巡礼』正倉院に憶う