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私は夢から覚めたくない ―能楽『井筒』―

世阿弥が歴史や古典をもとに、どう自作を練り上げていったのか。
申楽一座の野臥せりに近しい少年「鬼夜叉」が歯を食いしばって、当時最高の教養という名の苦汁を、我が骨肉と化すまで細胞レベルで吸い尽くしたのです。
当時最高のintelligentsiaである二条良基に見出され、絶世の美を誇る稚児「藤若」の名を与えられた世阿弥。
藤若すなわち天下の藤原氏が認めた稚児は、足利三代将軍義満の庇護を勝ち取り、公家だけではなく武家の文化にまで喰らいついていったのです。

私がお能が好きなのは、歴史と古典が好きだからです。
あと、幽霊噺も大好きで。

世阿弥も歴史と古典と幽霊噺が好きだったとは、自惚れが過ぎますでしょうか。

まあ、簡単にいえば、お能は、「誰かがやってくる」、それに尽きます。
夢幻能では、その誰かとは、ほぼ死者の亡霊です。
つまり死者の夢につきあう、それが夢幻能です。
ただし、その亡霊たちはそんじょそこらの亡霊ではなく、日本の神代からの歴史の主役ばかり、もしくは古典作品の主役ばかり、おったまげ。

さても謡うためのお能の詞書は下戸の私を酩酊させます。
ですが、「起きろ!」、そう冷や水をぶっかけられるときも、あるのです。

で、『井筒』について。
これは世阿弥が数々の自作でベストワンと認めていたものです。

見ればなつかしや。我ながらなつかしや。

世阿弥『井筒』

これ、どういう意味なのか。
業平になり切って、業平として業平を懐かしがっているのか、水鏡のように。
そうなら幸せでしょうが。ギリシア神話のナルキッソスのように。

自分が所詮、自分以外の者を演じている、それに気づいたら、虚しさの極み、でしょうに。

井筒の女は、ほんとうに、今はいない夫・業平に扮して、筒井筒の井戸の水鏡に映る様に、業平自身を見ているのでしょうか?

業平になり切って、それはもう、ただ待つだけの女と呼べるのか。

香月泰男 『水鏡』 Ⓒ東京国立近代美術館

また、私は浮かばれない。
無間の、無明の、絶え間のない夢に、また、墜ちていく。

私はなんとなく、世阿弥は死者を夢に遊ばせるのを好んでいる気がするのです。
シテの亡霊に対し、ワキは僧侶。
浮かばれたいの志から、仏門のワキめがけてシテの亡霊は黄泉から舞い戻ってくる。

けれど、うっかり浮かばれたら、もう夢を見ることができなくなる。

私は夢から覚めたくない。
夢に生きる、そのために、私は業平を利用する。

ここで私は冷や水を浴びる。
怖いよ、お能は。
それを思い出して、冷や汗にまみれる。

遊ばれているのは、生けるこちらがわのほうこそなのだと。

私はそれでも、好きです、お能が。
地獄の論理を識れるようなので。