ならだより

2024.10.27 神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬る。

2024年10月27日、ドライブに連れて行けとの息子の希望にて、私にしては珍しく行き当たりばったり、奈良県の東の最北端、柳生の郷へ。

意外や、剣豪の郷、柳生をまともに訪問するのはこれが初めて。あんなにサニー千葉が主演の時代劇『柳生一族の陰謀』が好きだった割に。

主人と息子、『鬼滅の刃』の一刀石を目当てに800mの天岩立神社までの山道をすいすい進む。理路整然と杉が植樹された手入れの行き届いた山林とはいえ、山は山、地上の平坦な道とは訳が違う。

大汗をかいて、天岩立神社へ到着。石の鳥居の前に屯って談笑していたイケオジのライダー集団と、挨拶を交わしました。いーなー、バイクで悠々ここまで登ったら、そりゃ息も上がらず楽しく笑っていられるよなー。

うわ、巨岩だらけ! どの岩も一辺が3mはあります。この足場の悪さを利用して、足腰の鍛錬をしていたと。さすが剣豪、柳生一族の修行の場。

なんやこれ! 人の背丈の3倍はある巨岩群! まったく先入観なしで訪れたので、私、唖然。主人と息子は100mほど先の一刀石が目当てなので、そそくさと先に行ってしまいました。

案内看板の説明内容より、その直筆で揮毫された手蹟の達筆ぶりに、感銘を享けました。ただし、左から八行目、巨岩信仰が虚岩信仰となっているのが、惜しい。虚空と先に書いていたから、虚の字を用いてしまったのでしょう。

右が、前伏磐。左が前立磐。花崗岩に手を加えた切石にも見えますが、どうなんでしょうかね。

右上が、前立磐。左下が、後立磐。この3つの巨岩が、そもそものご神体。

後立磐の左手に迫っているのが――

――巾着磐! 幅も高さも7m! 昭和28年に崖崩れで落ちてきたとのこと。びっくり。

おー、見えてきた、一刀石! 太陽光のスポットが当たっています。

有志の方々が、数本の模型の刀剣と自撮り棒を置いてくださっているので、息子もさっそく斬り込んでいました。

一刀石、長さ8m、幅7m、高さ2mの花崗岩。誰が割ったのか、勝手に割れたのか、謎。

柳生一族の真摯さと底知れなさが匂ってきそうな巨岩。

天狗と稽古って、自分自身と稽古していたにほかならない。山岳修行に限らず、修行と謳われるものは、みんなそう。

改めて、天石立神社にお参り。こんなでっかい岩、降ってくるんか、こわ。

この扁額のような説明板、わかりやすい。

もしかして、これら先住の3つの岩代が、この新参者の巾着磐を、塞き止めたのかもしれない。

皇室に何か起こると、これらの岩代が鳴動するとのこと。

大声上げても、岩が崩れてきそうと思わせるものがあり、静かに忍ぶように修練したのでしょう、柳生一族。

てくてく下山、左は登ってきた道なので、右手に進みます。

正木坂道場の手前です。大木の見事なこと。

石段を登ると、柳生の郷が一望できます。

正木坂道場。今も使用されています。今日は誰もいませんでした。

芳徳禅寺。柳生家の菩提寺、奈良には珍しい禅宗のお寺です。

この案内看板には書かれていませんが、開山はあの有名な沢庵和尚です。

拝観料も木箱に入れて、誰もいないような閑静なお寺、勝手気ままに眺めて逍遥しました。

あおあおと、とても元気な楓の枝ぶり。これは紅葉が待ち遠しい。

ほんの少しですが、色づいていました。伸びやかな庭、実際、紅葉の名所なのです。

大銀杏に負けず、息子、ジャンプ! 浮いているときに撮れとのこと。子どもですわ、まだまだ。

方丈とは、こぢんまりとした3メートル四方の間のことです。仏間なので、撮影は控えました。庭は荒れていたので、これまた写しませんでした。

お寺の板の間、いい感じ。スリッパを脱いで、裸足で歩かせていただきました。

柳生陣屋跡。廃藩で完膚なきまで取り壊したのでこのざま……ではありません。

寛永14年(1642年)年に柳生宗矩が3年をかけて建てた柳生藩の陣屋跡です。「柳生藩日記」によると、その坪数は1374坪(454㎡)表は竹の枝門であったと記されています。その後、宗冬に増築整備されましたが、延享4年(1747年)の火災により全焼し、仮建築のまま明治の廃藩により姿を消しました。昭和55年6月に史跡公園として整備されました。

柳生観光協会ホームページ

廃墟には桜の木がいっぱい植わっていました。春は壮観でしょうね。

こんなところにお地蔵さん! 歯痛地蔵とお呼びするそう。しかし、その伝説は悲惨の一言。

歯痛地蔵

大昔、柳生の隣村である大柳生阪原に才智に長け、田畑を多く所有し、その財力と才智で水路を開いた庄屋 斉藤甚蔵がいました。柳生藩主は彼の才能を恐れ、無実の罪をかぶせて処刑に処した際に、甚蔵は「三年の間に柳生を灰にする」と言って死にました。藩主はこれを恐れて毎夜不審番を警戒しましたが、三年後の最後の晩に、陣屋は火事となり灰になりました。藩主はおおいに恐れて、陣屋跡の自然石に供養の為に石仏を刻んだと伝えられています。

柳生観光協会ホームページ

うーん、伝説の内容がひどすぎる。しかも、歯痛地蔵って牧歌的な呼び名がこれまた腑に落ちず。実話なのか、実話でなかったとしてもモデルとなる事件があったのか、もうちょっと掘り下げて調べたくなりました。

楠木正成も信奉した摩利支天! 摩利支天好きの私、山道坂道歩きすぎてクタクタでしたが、もう一息、気張ってみることに。

こここそ廃仏毀釈で完膚なきまでやっちまったみたいです。でも、反省されて、このようなレリーフを刻まれたのは、すばらしい。

この摩利支天の祠跡の向こう、奈良県下で現存する唯一の武家屋敷、旧柳生藩家老屋敷があるのですが、もうあかん、今日はギブアップ。疱瘡地蔵や十兵衛杉など、見どころはまだまだ残っているので、再訪とします。

サニー千葉の雄姿、サブスクで再見といたします。

裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや。

『柳生一族の陰謀』オープニングナレーション

奈良市街から一山越えて、秋の実りの稲穂の波が光り輝き誰もが歓声を上げる、柳生の郷がぱあっと拓けるのです。

ああ、車窓からブレブレで撮った写真では伝わらないな。心が明るい光で満ちる、そんな豊かで美しい郷なのです、柳生は。

帰り道、奈良国立博物館を横切りました。正倉院展が始まって、かなりの混雑っぷり。いつまでも暑くて秋らしくないうちは、正倉院展には行きません。今年もふらり、気ままにNightMuseumの予定。