波斯へ

預言者と花と暗殺者 ―恵果と瓊花と荊軻―

空海 ⒸWikipedia

弘法大師空海は、私にはその名の通り、空のように海のように広大すぎる存在で、要するに、掴みどころが有るのか無いのか判断に迷うのです。
そこへ、入唐した空海と恵果との邂逅は、輪廻という仏教の礎にも等しい概念を、私にポンと、投げかけるものでした。

恵果 ⒸWikipedia

恵果の偉大な師であった不空、その生まれ変わりが空海であり、「あなたを待っていた」と、空海の師である恵果が、空海を通して不空を不死とするのです。
そして、死にゆく恵果は空海の甚大な思想として、不空と同じく生き継がれてゆくのです。

私みたいなへなちょこに密教のなんたるかを理解できるはずもないのですが、空海のエピソードでは恵果の存在ひとつ、琴線を掻き鳴らされるのです。

荊軻 ⒸWikipedia

もうひとりの「けいか」が中華の中原に存在しました。始皇帝の暗殺未遂者、荊軻です。
武田泰淳(奥さんは『富士日記』の武田百合子)曰く「生き恥さらした男である」司馬遷は、『史記』を血を吐く思いで執筆しました。司馬遷は、武帝に去勢されたのです。生きながら殺されたようなものです。

中国の歴史は、首が飛ぶ飛ぶ、斃した敵を細切れに斬り刻んで肉の漬物にして食べる、などなど、意識が遠のく熾烈さです。
それでも、刺客の道を選ぶのは……

風蕭蕭として易水寒く 壮士一たび去りて復た還らず

風はもの寂しく吹いて易水は冷たく、壮士はひとたび去れば二度と戻らない。

司馬遷『史記』「刺客列伝 荊軻伝」

たとえ暗殺に成功しても、生きて戻れることは、ない。
荊軻は自らに挽歌を詠んだのです。

瓊花 ⒸWikipedia

私のハンドルネーム瓊花にも、惨殺された刺客の名前が響きます。
つまりは私の中にも、どうしようにもない修羅が巣食っているということです。

恵果とは、預言者とも見なせる大唐の高僧。
瓊花とは、隋の煬帝が門外不出とした白い花。
荊軻とは、秦に滅ぼされた衛の国の暗殺者。

「けいか」三態。
いずれも中原に萌えいずるもの。