おまえが生んだ仏は おまえだけのものだ
だれにもまねられぬ だれにも盗まれぬ手塚治虫『火の鳥 鳳凰編』
中途半端な論文を書くために奈良大学通信教育部に入学したわけではない。
そう思いあぐねて休学を決めたころ、いつも口ずさんでいた言葉。
それは、即身仏にならんとする良弁上人が、弟子の我王に遺した言葉。
思えば、どうして私は天平時代が苦手だったのか。
政治にからめとられた宗教に反吐が出そうになったのは、子どものころに読んだ手塚治虫先生の傑作『火の鳥 鳳凰編』の影響大でした。
これを読んだ後、しばし放心しました。
火の鳥は、命の論理で動きます。人間の論理なんかで、動きはしません。
命の論理、しかし火の鳥はそれを何も認識していないのかもしれません。
12月16日、良弁忌に生まれた私。
『火の鳥』のお話の中で良弁上人は、大仏建立の発起人である自らを悔います。
大仏建立、それでほんとうに誰が救われるのか。そもそも救いとは、どういうことなのか、と。
1300年後の私、東大寺へかようたび、思うのです。
救われたいと願う、それですでに救われているのかもしれない、と。
私にできることは、良弁上人の遺言を遵守すること。
誰にも追えない、誰にも奪えない、私にしか刻めない仏を刻むこと。
そして私は、奈良大学通信教育部における私の持論、卒業論文をまとめあげたのです。