神々は奇数がお好き。特に、3。
宗像三女神よろしく、奈良県南部の吉野連峰にも丹生川上神社の三社が鎮座坐す。
この、近つ宮・中つ宮・奥つ宮の形式は、日本の祈りの構造のStandardです。
奈良盆地南西部、葛城地方、神代から鴨氏が祀る古社も、上記の構造で配置されているのです。
鴨三社は平地から奥つ城まで見て、下鴨社:鴨都波神社(かもつば)神社、中鴨社:葛木御歳(かつらぎみとし)神社、上鴨社:高鴨(たかかも)神社となります。
いずれも国家鎮護を担う名神大社です。
ちなみに、いわゆる日本最古の神社、当然ながらこれは一つに絞れません。
ざっくりと神代から続く神社を奈良盆地に限定すれば、三輪氏の大神神社、物部氏の石上神宮、葛城氏の葛城一言主神社、そして鴨氏の鴨三社、となります。
先ず、葛城氏と鴨氏の関係性について、これも神代から端を発することなので漠として杳としていますが、政治は葛城氏で祭祀は鴨氏、そう、藤原氏と中臣氏のように、職能を分けていたのではないでしょうか。
まさに、日本の黎明の歴史を紐解くと、やはりヤマトという土地には一目置かざるを得なくなります。
鴨三社のうち、私が未踏の神社、葛木御歳神社にようやくお参り叶いました。
清潔な光あふれる境内、地には蛙、空には蝶が舞い遊ぶ、初夏の生き生きとした気配に満ちている。
それが初見の感想でした。
木立から葛城山を望めます。
こちらの神社がどれほど格式高いかは、丁寧に綴られたホームページをご覧あれ。
私もたまたまネットサーフィン中に、ずっとお参りしそびれたままの、この鴨の古社に辿り着けたのです。
平安初期には朝廷が任命した神祇官を拒否したと記録されるほど権威を奮った名神大社が、なんと10数年前には荒廃して朽ち果てかけていたそうです。
御歳神社が坐す御所市は過疎の町です。少子化以前に、若い世帯が少ない。当然ながら氏子さんも減り、神社の維持が難しかったそうです。
妖怪が出そうなほど荒みきり、地図には記載されていても誰も訪れられない、そんな寂しい神社になってしまっていたのです。
それを中興されたのが当代の宮司、東川(うのかわ)優子さんです。宮司さんの人となりや歩んでこられた道は、ホームページをご覧ください。頭が下がるの一言です。
国立の名門、奈良女子大学で環境生物学を学ばれ、紆余曲折を経たのち、皇學館大学で神道を修められ首席で卒業。
そんな才媛の中の才媛の宮司さん、実際お話してみると、リケジョの理路整然さと同時にハートのたぎる血潮が読み取れました。
クラウドファンディングで造営された祖霊社。
先ず行動ありきの宮司さん、氏子さんを増やせられない現状、ならば全国に支援者を募られたのです。
歳神様とはどういった神様なのか、宮司さんから教えていただきました。
普段は山にお住いの歳神様ですがお正月になると山から降りられ、人々へ餅をお年玉として授けられると、また山へ帰って行かれる。
つまり、稲の神様なのだと。
お節は歳神様と一緒に食べるもので、だから祝箸の両端は双方とも口をつけられるように細められている、神と人と一緒に食べているのだと。
私と主人と息子、一様に感激。これは重要な神様だと、再認識。
歳神様が山から降りてこられないと、人は餓えてしまうことになります。
祖霊社は、永年祭祀としてこちらの神社に御魂を寄せる社です。死後、どなたでもここで眠らせていただけるそうです。
祖霊社の意匠は歳神様にあやかって、とてもかわいい鏡餅です。
歳神様のお下がりのお餅は、歳神様そのものを食べること。
神道が少しだけ、わかったような気がしました。
帰宅して、宮司さんが中興される前の神社の風景をインターネットで見たのですが、暗くて鬱蒼として、怖くて近づけない、そうとしか思えないものでした。
人の手が加えられないと、人が来ないと、神社には神様は降りてこられない。
神の依代は、人なのかもしれません。
説明看板。御神体の御歳山の写真。山の奥宮には磐座があるそうです。やはり、ね。
息子、拝殿でおみくじを引く。結果、小吉。でも、書いてあることはいいことばかり。
「おみくじ、もらって帰る」と息子。
「パパ、お宮さんのカフェ、今はお休みしてるけど7月からまた開くんだよね。ごはん食べに行こうね」
神社に人が集まるようにと、クラウドファンディングで宮司さんはカフェを作られました。
イベントも、質の良いものを行っておられます。
小さくなってしまった名神大社、私もお気持ちだけですが、お力添えをすることにしましたら、宮司さんに喜んでいただけました。
「瓊花さんからいただいたメール、ほんとうにうれしかった。今日もわざわざ来ていただいて、ありがとうございました。また来てくださいね、ご家族で」
右の山は葛城山、左の山は金剛山。
御歳山の南側、船宿寺。この機会に訪れてみることに。
ひー、絶景!
さすが行基菩薩が開祖の古寺、最高の立地です。
御歳山。
御歳神社はこの杜の、北側。
行基さんは、舟形の石の上に薬師如来を刻めとお告げを受け、この地に庵を結びました。だから、船宿寺と言うのだと。
その岩、古墳でしょうね、きっと。
御歳神社の裏に寺を建てる。
行基さん、何を考えておられたのか。
本堂の前、夢遊病者のごとき彷徨う息子。
蜻蛉を追いかけているのです。
立派なお寺で、お庭もお花も庭師さんが数人で手入れされて、お宮と比べてはいけないのですが、やっぱり頭の中で並べてしまいました。
お寺とお宮の違いではなく、そこに人がどれだけ尽力するか、です。
御歳神社の宮司さんと船宿寺の大黒さんは仲良しだそうで、きっとこれからを模索されているはず。
私も気長に、御歳山の南北が栄えることを祈ることにしました。
コロナ禍で奈良県内に軟禁中の我々。でも、Discovery Nara! です。