田辺聖子さん、お聖さんのパロディ版『源氏物語』の『春のめざめは紫の巻』の一篇『六条ろくでなし』、読んで大爆笑しました。
他のお話も粒ぞろい。『春のめざめは紫の巻』『見飽かぬ花の赤鼻』『やんちゃ姫玉かつら』『六条ろくでなし』『早口姫口ばやに恋を語る』『浅はかの朝顔の恋』『うつうつ空蝉の恋』『恋はさんざん女三の宮』、源氏ファンなら、どの登場人物がパロディの主役か一目瞭然。
六条御息所は「六条のオバハン」、光源氏は「ウチの大将」呼ばわり、めちゃくちゃ面白いのです。
『恋はさんざん女三の宮』の、女三の宮と柏木の逢瀬がもう、みずみずしくて、「さすがお聖さん、わかったはるわ」と唸る出来。
自分をcocu(寝取られ男)にした柏木へ「抹殺したります!」と関西弁で叫ぶ、オジンで我儘でイケメンでおもろい光源氏、これまた最高です。
さて、ご存じ光源氏が恋愛ハンター駆け出し時分に仕留めた大物、それが六条御息所。
前皇太子の未亡人で当代きっての趣味人、顔を見せるなんて以ての外の当時はその風聞だけで「美人」に相当。
美人で才媛、しかも年上の未亡人。若い光源氏には後腐れなく関われる相手でもあり(実際は、ド腐れしましたが)。
歴史文学論ご担当の三宅先生も「六条御息所は結構普通の人」と光源氏の言葉(つくづくsevereな男です)で、テキストでも説明されています。
美人で才媛、でも見識は平々凡々。この手合い、どこかにもいたよなぁ?
あ、『蜻蛉日記』の作者!
……そりゃあ、プライド高いわ。
プライドとは、劣等感の二つ名ですから。
ただでさえプライドの塊の六条御息所、とうとうプライドの権化と成り果てて。
さて、お能の『葵上』。これは、女の嫉妬を描いた作品。
六条御息所の呪いを受けて伏せる葵上は、役者を用いず、能舞台に寝かされた小袖で表現されます。
この演出、世阿弥が男女問わず人間の嫉妬というものを、その身をもって体験した証拠です。
嫉妬は、相手なんか関係ない。
嫉妬は、敗北した自分自身への怒り。
葵上は、六条御息所のことなんか、ひとつも敬っていないのです。
左大臣を父に内親王を母に持つ葵上。
前皇太子妃、自分の夫が捨てた元愛人、そんな過去の栄光しかない六条御息所に、葵上が臆する理由など、皆無でした。
だからこの能楽『葵上』、徹底して、六条御息所の一人相撲でしかないのです。
シテ わらはは蓬生の
地謡 本あらざりし身となりて
葉末の露と消えもせば
それさへ殊に恨めしや
夢にだにかへらぬものをわが契
昔語になりぬれば
なほも思は真澄鏡
その面影も恥かしや
枕に立てる破車
うち乗せ隠れ行かうよう鬼と化した自分はもう、源氏に愛されることはない。
だから葵上も同じ目に、生きて源氏に愛されないよう、死者の世界へ追い落とす。
ひどいなー、もー。
これは、引くわー。
なんやねん、結局、夫婦が和合する、そんな当然が耐えられんのか、アホかいな。
ああ、これが、嫉妬ってものか。
どこまで行っても、私利私欲。
久々に『葵上』の詞書を読んでみて、げー、こんな生々しかったんかい、と茫然自失。
世阿弥って、人間をよく視ています。
しかし、必要とあらば創作をそこへ交えます。
能楽『葵上』に於いては、葵上は取り殺されず生かされ、六条御息所の「生霊」は成仏を遂げます。
つまり『源氏物語』とは真逆の結末。
むかしむかし、心の病は物怪や生霊が理由とされました。それで救われた人々、大勢いたかと。物怪や生霊に責任をおっ被せられるので。
逆に、それによって苦渋した人もいたかと。
六条御息所は生霊を飛ばしてもおかしくない人、世間にそう思われてしまったということです。
現代人の目線では、六条御息所は決して葵上や夕顔の命を奪った殺人鬼ではありません。
しかし、『源氏物語』の書きようは、六条御息所の「生霊」こそ下手人です。
だから世阿弥は罪を憎んで人を憎まず、六条御息所の「生霊だけ」調伏させたのです。
だーかーら、能楽『野宮』で、死後の六条御息所「本人」が幽霊として現れます。
未だ源氏に心を奪われたままで。
未だ葵上に嫉妬したままで。
そう、死者が亡霊としてやってくる『野宮』は、夢幻能です。
生霊として鬼と化す『葵上』。
死後の霊魂として現れる『野宮』。
あたかも実在するかのごとき六条御息所は、世阿弥を筆頭とした数多の読者たちから命を吹き込まれた、まったき愛された女なのです。
能を勉強して思うこと。
日本人は、幽明境を異にしない、そんな奇特な文化に芽吹く民族ということ。
話は最初に一巡して。
『六条ろくでなし』での「六条のオバハン」こと六条御息所は、完全無欠な淑女を演じているオンの姿より、鎧のようなハイヒールやガードル(!)をかなぐり脱いで、仮面のような厚化粧を洗い流したスッピンでブブ漬け(お茶漬け)を掻き込む、オフの姿がたいそうFreedomな魅力に満ち溢れています。
なんのために着飾るのか、なんのために鎧を帯びるのか。
それは、それらをはずすため、不自由によって自由を知るため、なのではないでしょうか。
日来は何とも覚えぬ鎧が今日は重うなつたるぞや
これまでなんとも思わなかった鎧が、戦に敗れた身にある今日は、重い。
木曽義仲『平家物語』木曽最期