

2025年11月24日、奈良の佐保の郷の名刹、興福院(こんぶいん)の秋季特別拝観へ。この奈良時代創建の由緒正しい尼寺、拝観不可の尼僧の修行の寺院と私は子ども時代より認識していたため、まさか2019年より毎年期間限定での拝観が叶えられていたとは、2年ほど前に知ったくらいでした。
興福院拝観も「人生やり残したリスト」の課題の一つで、心臓を悪くした私には、喫緊になんとか叶えたい重要課題でありました。
なぜなら、このお寺、私の潜在意識に問いかけてくる女性が何人も関わっているからです。
興福院の創建者は、諸説ありますが、藤原百川との説が濃厚です。この百川、藤原式家の権謀術数の権化として生きて死んだ男、桓武天皇擁立のための汚れ役を一手に担った男ですが、そうなるだけの闇を抱えさせられた、つまりは苦労に満ちた幼少期を余儀なくされたことを、この男から看過することは不可能です。
長屋王の呪いとも見なされた天然痘で亡くなった父宇合、夫の死後2年も経ていたのに石上乙麻呂との姦通の咎で流罪された母久米若女(くめのわかめ)、藤原氏を袖へ追いやった朝廷に弓を引いて斬首された長兄広嗣、特に、母の流罪に関しては、当時数えで8歳の幼い百川の心にどれほどの痛手、傷を負わせたか、はかりしれません。
この久米若女、万葉集での久米郎女と同一人物ともされ、舎人親王の息子の厚見王と相聞歌を残していることから、藤原氏や石上氏などの大貴族のみならず皇族の貴公子の心も奪うほど、たいへん美しく魅力的な女性であったことは間違いないと思われます。
流罪となった翌年に大赦にて帰京した母を、9歳の百川は、おそらく諸手で迎え入れたと思われます。なぜなら、あれほど政敵に対しては徹底して容赦なかった百川が、罪人にまで落とされた母の処遇の向上だけは臆面もなく働きかけ、自分が死の床にあったときも妻と娘とともに母を傍らに置いたからです。
逆縁とは情けない、母のたった一人の子である自分こそ、母の死に水を取らなければならなかったのに。そう忸怩たる思いだったかもしれません、百川は最期に。
久米若女は一粒種の百川が亡くなった翌年、その後を追うように亡くなりました。もはや命を永らえる意味もない、と。このたいへん美しい母が人生で真実愛したのは、自分に似てたいへん美しい姿形をしていたのに誰にもそれを迂闊に気取らせないほど冷酷非情に生き抜いた息子だけだったのでしょう。
思えば、成人した百川が宿敵として的を狙い定めたのは、藤原式家の権威失墜の一環として、幼い百川から美しい母を奪った勢力でした。
興福院は、もしかしたら、最愛の母のために息子が建立した寺だったのかもしれません。そのときには、息子は健在だったのでしょう。そのときには息子は、いずれ自分が母の最期を看取り、その菩提を弔うつもりだったのでしょう。
「あなたに再び会うために、わたしは生きて帰ってきましたよ」、そう泣き笑いながら幼い自分を抱きしめてくれた、誰よりも若々しく誰よりも美しい母を、息子は生涯忘れることはなかったのでしょう。
そういった無償の愛を感じずにはいられないのです、興福院からは、私は。
昔は、藤原式家についてなんて言及する気も起らなかったのに、私も少しはおとなになったのでしょうか。

10時過ぎ、興福院に到着。秋の三連休、奈良公園一帯はごった返しているはずですが、ここ、佐保の郷は閑雅なものです。

万年青(おもと)の赤い実がお出迎え。客を迎える花として、万年青は最高の花です。この素朴ながら上品な看板に、胸がぽっと温まりました。
「大和大納言 豊臣秀長公 ゆかりの尼寺」とのフライヤーのコピーライト、その通りなのです。この奈良時代創建の尼寺、中世には没落していました。それを中興させた人物が、光秀尼。
郡山城主となって大和入りした秀長が、法華寺の光明皇后の法事に出席した際、若くして世を儚んで出家した秋篠氏の娘を見初め、還俗させて側室に迎えたのが、お藤と呼ばれた光秀尼。秀長が亡くなると再び仏門に入り、興福院を継承しました。
よほど美しかったのでしょう、お藤の方、光秀尼。だから、若くして出家したのかもしれません。分不相応な美貌に、苦労させられた少女時代だったのかもしれません。
秀長くらいの男でないと、相手にできない女性だったのでしょう。

看板の足元を飾るこの可愛らしい黄色い実、なんと月桃。貴重な月桃の実で、参拝客をもてなしてくださっている。
この達筆の注意書きと、素朴で上品な花々に、この先もたくさんお目にかかることになるのです。

ああ、寧楽の都、これぞ。優しく麗しい、古き良き都。

大門の脇から入ります。素晴らしい紅葉! まさに見頃!

佐保の郷は空気が澄んでいるから、紅葉の色も鮮やかです。

客殿に先ずは案内されました。小堀遠州の弟子によって成された庭園を眺めながら、遠州流のお茶を一服することに。

拝観料を納めると、リーフレットが、寺宝の徳川五代将軍家綱が愛妾瑞春院への贈り物をふんわり覆った刺繡掛袱紗をモチーフにしたミニファイルに入れて、渡されました。
年に三日しか拝観できない、それもあってか拝観料1000円で、お茶席券も1000円ですが、この美しくも慎ましいお寺がいたるところアライグマに荒らされている被害へ、それら全額充てられると聞けば、安いものだと。
文化財保護なのです、私には寺社仏閣の拝観料を納めるのは。

明日の雨天の兆しとして鱗雲が湧いて出てきたけれど、この三連休、とても良い天気で、暑いくらい。

俵形のきなこの干菓子と、正倉院宝物の香木「黄熟香」から発想を得た干菓子。後者は鶏卵を用いているらしく、干菓子にしては柔らかく不思議な食感。でも、どちらもとてもおいしい。素朴で上品、この比喩こそ、奈良を表す。

お薄も上等な抹茶で点てられていて、おいしい。このお茶碗も、「きれいさび」、遠州好み。

山門の大門と中門から本堂へ向けての参道が傾斜で、それに合わせて直線的に庭木を配置してあるのが、まさに小堀遠州の理路整然とした審美眼。

でも、ここは奈良、おおらかで、のびやか。

障子から覗く紅葉も、わざとらしさがない。そこも、奈良。

わたしみたいなあなたに出会ふ木下闇(こしたやみ)
土肥あき子

なんて、すてき! 私の好み、どまんなか!
白くて、小さくて、愛らしくて、品があって、飾り気がなくて、凛々しくて。

しらたまほしくさ、だいもんじそう、なんだかお雛様のよう。それにしても、キャプションの葉っぱ、葉書の語源のタラヨウがとてもすてき! タラヨウは、字が書ける葉なのです。

秋が駆け上っていく、色めきながら。

お菓子のキャプションまで、こんなシダの籠盛りで。ならまちの中西与三郎さんところの謹製だったのか。買いに行こう。

大和郡山市の蔵元中谷酒造の銘酒「豊臣秀長」への献花、竹と山帰来。
美しい。このしつらえ、見事です。どこの御社中の手すさびなのだろう。

なんというか、キャプションの配置そのものが慎ましく、この尼寺へのリスペクトを感じさせるのです。

李白一斗詩百篇、か。詩仙への献花が愛らしい。

ここにもタラヨウのキャプション。こんな仔狐のいたずらみたいな演出されたら、ますます好きになっちゃう、このお寺。

杜甫がいかに李白をリスペクトしたか。時を超えて魅力を放つ人物を想う、それも歴史の妙味。

さて、客殿から本堂へ向けて、渡り廊下を上ります。

椿の群れ! なんて可愛らしい順路を示す案内なのか。

黒い実の、私は誰でしょう、名前をあててください、白い花が咲きます。
仔狐からの問いかけ。アオツヅラフジかな?

一面の山帰来! 圧倒されました。蔓性植物の繁殖力と、赤い実の愛らしさ、寒い季節の道しるべとして。

渡り廊下の左手、御霊屋(おたまや)。徳川将軍代々の位牌を祀っている霊廟。だから、お花も仏花の菊、野路菊なのでしょうか。

御霊屋からは奈良市内が一望できます。佐保丘陵にあることに、しみじみ。

建造物より、この椿の大木に目を奪われ。

豊臣を滅ぼした徳川の庇護に下って、生き残った。その徳川も、夢のまた夢。

御霊屋の一円、野薊が自生しているので、敷石から足を踏み外さないでくださいとのお達し。

優しくて、可愛らしくて、大好きになりました、このお寺。

敷石のくぼみ、野薊にも札が。踏まないであげてください、と。

御霊屋から渡り廊下へ戻って、山帰来と野路菊が本堂へ向かって右へ進めと。

おお、ちょっと奈良とは思えない風情、京都の古刹へ来たみたい。

本堂は撮影禁止。これは、本堂から山門へと続く石段。この石段は、下り専用となっていました。

渡り廊下も、こうして眺めるととても手の込んだ建造物と知れます。

屋根が直線に対し、廊下は太鼓橋の曲線で、これはかっこいいと感心しました。

手折ることなかれ、ですって! しびれちゃった!
古語の美しさ、花を愛する優しさに。

本堂の境内一面、梔子の実が色づいていました。
梔子の実は、それは美しい黄色の色素を得られるので、栗金団や沢庵の色付けの食用にも、草木染めとしての工業用としても活用できるのです。
手折りたくなるのも納得の魅力。

徳川五代将軍綱吉が愛妾の瑞春院へ贈り物を下賜する際、ラッピングとしてそれらの上にかけた刺繍掛袱紗の一群。こんな華麗にして精緻な刺繍の掛物、どれほど見事な贈り物を飾ったのでしょうか。
庶民の出の瑞春院、綱吉の子を唯一なした女性であったこともあり、寵愛を極めました。綱吉が亡くなった後、興福院門跡へこれら刺繍掛袱紗を菩提を弔うために寄贈したとのことです。
瑞春院、とても嬉しかったのでしょう、綱吉にこんな美しいラッピングまでして贈り物を届けてもらえたことが。だから、いわゆる包装ですが、大切にとっておいたのでしょう、まるで私的な恋文のように。
なんだか、瑞春院をとても身近に感じることができました。

アライグマ被害に充てられると聞いたからには、8種類のクリアファイル、すべて買わせていただきました。文化財保護と思えば、安い安い。

クリアファイルを全種類買ってくださったお礼にと、お寺の職員さんが特別な寺宝を教えてくださいました。
本堂と鐘楼のあいだにひっそりと立つ、灯籠。ですが、明かり取りの窓が刳り貫かれていないのです。これは、六地蔵を彫った、実はお地蔵様なのです。
このお地蔵様、豊臣秀長ゆかりのもので、その菩提を弔ったもの。徳川の庇護に下ったからには、豊臣の遺物は除外しなければならない。しかし、こうして、秀長を忘れることはなかったというあかしなのだと。
私は、秀長が大和の住民から愛された人物だと知っていたので、しんみりしました。

あと、本堂の屋根には、鬼瓦や鍾馗様ならぬ、贔屓(ひき)。龍の子だけれど、龍になれなかった子。亀の甲羅をまとっていて、これで重いものをいくらでも支えると。もっと私を使ってくださいと願うその健気さから可愛がられて、贔屓の語源となった、と。
それが、どうして、屋根の上に登っているのだろう。
仁王様のように、こちらの贔屓は口を開けている、阿形として。

こっちは吽形として口を閉ざしている。かたつむりみたいで可愛い。
龍になれなかったのは、いつまでも龍を目指していたいから、か。
それは菩薩行そのもの。悟れるのに悟らない、いつまでも衆生のそばにいるために。

江戸時代の建造物ですが、見事に古代寺院様式を踏襲しています。

燃えるような紅葉。年々、紅葉が目に沁みる。

ものすごく遠くへ来た気がする。紅葉に狩られているのは、私、そんな気がする。

紅葉は、血の色なのだと、だから、欲するのだと。

尼寺を訪ねて、紅葉に酔った心地、血の匂いに酔うように。

霊園があるそうで、私は散骨希望で墓も持つ気はないのですが、このお寺になら永眠したくなりました。

客殿を摩する暖竹、クラリネットのリードになるそう。 のびのびと育っていました。

中門をはるかに見下ろす榧の大木。奈良県下でここまでの大木の榧はないそうです。

で、榧の実。これは食べられます。私は朝護孫子寺でこれを買って、魔除けとして焚きつけに使います。焼くと、とても良い香りがするのです。碁石の原料としても、榧の実は知られています。

お寺のボランティアガイドさんと話していると、たいへん上品なご婦人と鼎談となり、お茶室の門前に咲く花が柊かどうかで話題となり、ただ、葉っぱがトゲトゲしていないことから、私がGoogleレンズで調べると確かに柊と知り、そのご婦人の博識さに感心をして、そこから話し込むこととなりました。

中門のそば、ツルウメモドキの盛花。これ、入ってくるときは気づかなかった。このお寺の御社中、ほんとうに卓抜として、なおも控えめな立花(たてはな)を披露してくださって、特別拝観に訪れる人たちへの真心として伝わりました。

博識なご婦人は、私と同じく歴史と植物と手作りを愛する方で、帰路はその方と友連れで駅まで向かいました。
創建者の藤原百川のエピソードがほぼ取り上げられなかったことを、ご婦人は残念に思っていらっしゃって、私は、ああ、お仲間がいた、と心から嬉しく思いました。
藤原百川は悪役として認識されるけれど、私にはお母さんを想う子どもとしての印象が強いの。それに、歴史の悲劇は、どうしても相容れない方と婚姻を結ばなければいけない、その苦しみから始まると思うの。藤原百川のお母さんも恋をされただけ、でも、政権のそば近くにある方だから、どんな自由も許されなかった。
そう語られるご婦人、奈良の名士の方で、詳細はもちろん述べませんが、こんな博識で度量の深い御母堂様ならではの当然の立派な子育てをなさった方でした。
私は子どもたちに何も何もしていないのよ、勝手にすくすく大きくなっただけ。ただ、私、こうは言いました。好きでもない人と一緒になってはいけない、ひとつでもいいから尊敬の念を懐く方と寄り添いなさい。人を好きになることは、その人を尊敬することよ、と。
ご婦人、万葉集を自筆で書き写した方だけあって、人の気持ちを汲むに吝かでない方でした。
奈良にはこんな慎ましくも堂々と人生を歩む女性がいる。
ただの恋ではない、尊敬の念は不変。
今日、この尼寺をお参りできたことは、私の人生の糧となり、これからを支えるものとなりました。
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
三橋鷹女



